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とてちてた(短編小説)


「ありがとうございました。
 美味しく召し上がれますように」
 という銀だこ店員さんのおまじないに里香は癒された。しかし今日はもっと癒されたいと思ったので里香は名護さんに会いに行くことにする。
「本日揚げ物をふたつ買うと百円びきです。
 ごいっしょにいかがですか?」
 と会って早々胃もたれしそうな提案を持ちかける名護さんに「いりません、たこやきを買ってきたので」と里香は胃を気遣ってにこりと答えた。
「じゃあどうして来たの?」と名護さん。
「それは名護さんに会いたくて」と里香。
 実のところこれらはすべて里香の妄想であり、じっさいの名護さんは無心でレジを打っていた。
 里香は名護さんをちらと見る。それから悩ましげにはぁと小さな吐息を洩らし、そのついでに名護さんすきですと吐き洩らしてみようかなと喋る頭に「やめて」と懇願してアイスをえらぶ。するとアイスが里香に問う。「ねぇ、苺ってそんなにいうほどおいしいか?」それは冬季限定苺ピノだった。「舌に纏わりつく一万個のつぶつぶをどう思う?」と再び問われて里香は答える。「嫌い」
 そのとき、れれれれれれーと入店のメロディが店内に鳴り渡る。すると「いらっしゃいませ」という名護さんの言葉が軽やかと宙に舞う。それは例えて言うならひらひらと柔らかく舞う雪の様であり、里香はそれを食べてみたいと物思いに沈み込む。あれを口に含んで甘く快くあじわいたい。
 里香は名護さんのちいさい「え」を使わない話し方が好きだった。名護さんは「いらっしゃいませぇ」とは言わなくて、おそらく「てめぇ」とかも言ったりしないだろうと里香はうっとり考えていた。それから名護さんは…名護さんは……とつれづれと……そしてほら、名護さんに難癖付けたあの意地悪な客を八つ裂きに…………
 名護さんは消えてしまった。
 その原因は里香がたこやきを食べすぎたから。
 深く沈み込んだソファのうえで重たいまぶたをゆっくり開き、机の上に散乱したゴミを冷ややかに見つめて里香は考えている。 え? ねてた?
「おはしは一膳で、へへへへへ」
 と銀だこ店員の前で不気味に笑った数時間前の自分を恨みながら里香は胃を撫でた。書きかけの妄想小説がゴミでも見るかのような視線をその姿に向けていた。里香はその冷たい視線に堪えきれずPCを閉じようと手を伸ばしたのだが、再びソファに沈み込む。胃もたれ。吐く。挙げ句の果ては目眩を起こす。一人であの量は無理でした。と誰にいうでもなく涙がながれた。寂しい……。
「もっと名護さんと遊びたかった…」と里香は独り言を溢してソファにふかく溶けていく。「小説に書いてあることがすべて嘘とは限らないよね」と光り輝く源氏のように甘美な匂わせの台詞まで用意していたんだよ、名護さん…と嘆く。これはやけ食いのせいだ。そのダメージを受けて夕寝しているうちに夜はすっかり更けている。ゆえに名護さんは締切に間に合わなかった。里香のくだらない想像箱のなかで永遠の眠りについた。
 私のせいで……と里香は酷い胃もたれのせいで気ちがいじみた涙をこぼす。
 するとそのときこんな音が聴こえてきた。
 とてちてた、とてちてた。
 おそらく飼い猫の足音だろうと里香は考える。それが〈とてとて〉や〈とたとた〉ではなく〈とてちてた、とてちてた〉に聴こえたのはこのような懐かしい音楽が時々あたまのなかで鳴るからだった。『なまりのへいたいとてちてたー』
 猫はそのままとてちてたとてちてたとそばに寄ってきて里香の顔を覗き込んだ。里香が撫でようと手を伸ばすと突然猫のすがたがぐにゃりと滲む。すると猫の姿が幼いころにあそんだおともだちのように見えてくる。彼女は微塵の濁りもない星のようなオールドブルーの瞳でじっと里香を見て、里香は途端に目を背けたくなるような懐かしい罪悪感に襲われて伸ばした手を引いた。
「ごめんね、あの頃は知らなかったんだよ。人形の髪が伸びないなんて」
 ざっくばらんに切られた蒲公英色の頭はうんともすんとも動かなかった。ただじっと里香を見つめるその姿はおかしなことに名護さんにも見えてきて、それから子どものころ艶々になるほど撫でたり握りしめていたお気に入りの石ころにも見えてきて、常に持ち歩いていた柿の木の枝にも見えてきた。その枝は近所のいじめっこを「いつかコロす…」と企んで作成したオリジナルの凶器だったはず。そういえば何度も何度も家の塀に擦り付けて先を尖らせたりしてたっけ、と里香はその光景を脳裏に映し出す。それからおもちゃのピアノに喋るフクロウ、どんなに可愛くない日でも可愛くなれる魔法の鏡、いつも一緒にいた呪いを発動できるブードゥードール。「里香ちゃん遊ぼ!」
「でも私がいまいちばん一緒にあそびたいのは名護さんなんだよね」 
 という思いに駆られて里香は身体を起きあがらせる。すると目眩く世界が広がった。ありとあらゆるものが名護さんの姿に化けて、けれど全てのものに顔がなかった。のっぺらぼう。里香は吐き気に襲われた。蛸が胃の中で踊り狂って立っていられなくなりその場にしゃがみこむ。
 とてちてた、とてちてた。
 猫——あるいは違うなにかがお風呂場へと這うようにして向かう里香を追ってきて「形容詞を勉強しろ」などと騒ぎ立て、お湯に入り込んでもその悪寒は全く消えない。はあ、と里香は深い溜息を吐く。名護さんなんて作りあげなければよかったと鬱々とする。名護さんをお風呂で溺れさせる妄想に取り憑かれてみたりする。そこで里香は自分の人間性を疑った。あの斬新な髪型になってしまった人形はどこに行ったのか。考えたくない。とお湯のなかに潜り込んで「とてちてた」を追い払おうとするのだが、石ころも、木の枝も、鳴らないピアノも、喋らなくなった梟も、魔法を忘れた鏡も、呪い疲れたブードゥードールも、てめぇとか言わない名護さんも、溢れてこぼれて沈んで溺れて、それでも流されゆくことなく「ねぇ、ありがとうを言われてないよ? あんなに遊んであげたのに」と里香をどこまでも追いかけてくる。
 とてちてた、とてちてた。
「あの人を八つ裂きにしてきましょうか?」
 と里香は言う。
「え?」と名護さんは眉をひそめた。
「だってあの人名護さんに難癖付けたから」
「ああ、たしかにそうでしたね。それじゃあ八つ裂きにしちゃいましょうか」
 里香はお風呂を出てからというもの名護さんとあそびまくった。髪を乾かす作業もおろそかにして夢中で遊んだ。里香は眠らず綴りつづけた。ダイヤモンドの降る星から落ちてきたと信じている石ころは雨に打たれたアスファルトと同じ香りがするけど幸せだった。瞬きしてはみんなを見ないでね、と星が流れたらお祈りすることにした。
 八つ裂きパーティーにはおもちゃを総動員して遊ばせる。おもちゃたちはすべてがふたりの役に立ち、とくにブードゥードールの呪いの効果は健在で「里香ちゃんひよったんじゃない?」と言われてしまうくらいだった。里香は懐かしい歓喜に包まれていた。そしてもちろん名護さんは語る。
「小説に書いてあることがすべて嘘とは限らないよね」 
 里香は書く。「私は嘘ばかり書いています」
 それでもこれから先もたくさんあそんでくださいね。 とてちてた。

(おしまい)


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