『即位の礼』春風亭貫いち

ある日のことでございます。

神武天皇が極楽で開かれている菊花展の中を独りでぶらりぶらりと御歩きになっていらっしゃいました。綺麗に飾られている白や黄、薄桃、緑、橙など色とりどりの菊が何とも言えない匂ひを絶え間なく辺りに漂わせています。極楽は丁度昼なのでしょう。

やがて神武天皇は菊を見ることにもお飽きになったと見えて、持ち歩きの八咫鏡で髪型をチェックし始められました。この八咫鏡は下界や地獄の底とつながっておりますので、丹精に磨きこまれた鏡面を通して三途の大川や針富士山を、まるでGoogleマップで見るように、はっきりと見ることが出来るのでございます。

すると地獄の底にカンダタという男が他の罪人と一緒に責め苦を受けている光景が御目にとまりました。このカンダタという男は殺人に放火、強盗、詐欺、強姦……と下界で考えられうる犯罪には全て手を染めてきました。生前にカンダタがした善行と言えば蜘蛛一匹を殺さなかったというだけでございました。これに気づかれたお釈迦様の慈悲によって一度は命を救われかけましたカンダタでしたが、人の業と言いましょうか、浅ましい考えを起こし、再び地獄に突き落とされてしまいました。

神武天皇は地獄の容子を御覧になりながら、ふと御考えになりました。

「カンダタという男はあの日以来、千幾余年、自分の愚かしさを地獄で悔いてきたはずである。蜘蛛を助けるという善心を持ち合わせた男だ。丁度下界では我が子孫が新たな御世に就き、即位礼正殿の儀を執り行い、慶事を祝って恩赦を出したというではないか。余もカンダタを救ってやろう」

幸い、側を見ますと菊の花にミノムシが糸を掛けています。ミノムシの糸は蜘蛛の糸よりも強度があるということで下界では今注目されています。神武天皇はこのミノムシの糸を神鏡の中に御垂らしなさいました。

こちらはカンダタでございます。

千年前は他の罪人同様に血の池でもがいておりましたが、蜘蛛の糸を断ち切られて以降も血の池を漂っています。しかしカンダタには千年前とは大きな違いが生まれていました。カンダタは泳ぎを覚えました。日本古来より伝わる日本泳法です。今も血が酸化したようにどす黒く濁った池の中を片抜手一重伸しで悠々と泳いでいます。時折、巻足の姿勢でその場に留まり、他の罪人に泳ぎの手解きをして居ります。双眸は千年前よりもいきいきと、生前よりも力強いものでした。

ところがある時のことでございます。何気なくカンダタが背泳ぎで血の池の空を眺めますと、そのひっそりとした暗の中を、遠い遠い天上から白銀のミノムシの糸が、ゆっくりと降りてきました。カンダタは既視感を覚えました。

「おぉ有難い!地獄に落とされて千五百年余り、お釈迦様に蜘蛛の糸を斬られてからも血の池の中で毎日毎日悔い改めてきた甲斐があったというものだ。今度こそお釈迦様が私を助けてくれるんだ。今度は他の罪人を蹴落としたりしないつもりだーー

何て言うと思ったかっ!!!」

カンダタは急にミノムシの糸を思いっきり引っ張りました。

驚いたのは神武天皇です。

「カンダタ、何をするっ!?」

「てやんでぇ!また俺のこと期待させといて糸を切るつもりだろ!上げて落とすってなぁ最低なやつのやることだ。それに俺はこの地獄ってとこも気に入ってんだ。釈迦野郎も仲間に入れてやるよ。覚悟しやがれ」

「待て待てっ!私は神武天皇だ」

「嘘も大概にしやがれ~」

ってぇとカンダタはより強く糸を引きます。神武天皇の方では糸がどんどんどんどん鏡面に引き込まれていきます。ミノムシも地獄には行きたくないと見えて天皇の衣の裾を離しません。蜘蛛の糸より強度があるので斬ることも出来ません。

「落ち着くんだ、で、では極楽に来たら私の部下にしてやる。神の部下だぞ、良い地位だとは思わんか?」

「何が神だっ!よしんばお前が本当に天皇だとしてもお前ぇも元は人じゃねぇか~~」

そう言ってカンダタが糸をもうひと踏ん張り引きますと、神武天皇はミノムシごと鏡面に吸い込まれていき、地獄へと真っ逆さまに落ちてしまいました。

お釈迦様は極楽の蓮の池の縁に立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタと神武天皇が血みどろの喧嘩を始めると、悲しそうな顔をなさりながら、池の縁をぶらぶらと御歩きになり始めました。カンダタの非道な行いは言うまでもありませんが、神武天皇の自身を守るために放った誘い文句が、お釈迦様の御目から見ると、浅ましく思召されたのでございましょう。

かつては華やかな花弁をつけていた極楽の池の蓮たちも季節の移り変わりには太刀打ち出来ません。今は花弁をすっかり落とし寂しい様相を見せています。極楽は夜になっていました。

【当作品はフィクションです。特定の個人、団体、思想とは一切関係がありません。あくまでも「ホンマでっか」という気持ちでお楽しみ下さい】

2019.10.26

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