高山が作家として更に飛躍することを願い創作活動を支援したい!~エッセイ「ガーターベルトの女」の作品化を目指して【291】

妄想家・夢想家無名居士の夢物語の記録です
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【随筆】コロナウィルス 危機的状況と人と人が繋がろう

高山の作品から
随筆「父の容態 雑感

2017/07/06
父が入院したが、腎臓が相当悪いとの事で、また他の病院に移る。

透析しても無理なのでは、位悪いとの事です。

どうもずっと医者には掛かってましたが、全く十年程検査を拒んでたようですね。


僕が直接聞いた訳では無いので、明日また妹と母が動くようです。

違う病院に移るようです。

とにかく体重が四十キロまで落ちてるから体力をいかに戻すかに賭けてる。


今は現場が大雨で、詰め所でこれを書いてる。

これをブログに書くかサイトに書くか悩んだけど、ブログに書きます。

一つは、僕が若い頃色々な女性と遊べたのも父と言う大きな存在があったから、と色々雑感入れます。

僕が二十代であそこまで遊べたのは本意でないにしても、父と言う存在がバックに有ったからだと今では思いますね。

僕は常に父を意識して来たと思うし、仕事のやり方も父を時に反面教師にして、時に見習ってきました。

父の背中を追いかけたと思いますね。


こうして書いてて非常に悲しくなります。


昭和十七年生まれですから、七十代の半ばなら充分では無いかと言う人がいるだろうが、それは父を知らないから言えるんだと言い返しますね。

父の調子がおかしくなったのは、去年の十一月位だったと思う。

十年程前に脳内出血やって片半身が上手く使えなくても、最初は車にも乗れてたし甥っ子と野球も出来てましたが、去年の十一月位にぐっと悪くなりました。


上手く立てなくなって来て、しまいにはおしめをするようになりました。


その世話をしたのが、母です。


一日中寝たままでしたが、夕食の時は何とか起きて皆で食べてました。

うちは冷房も暖房も有りませんから、母とはもしかしたら冬を越せないのでは、と言ってたけど冬は越せました。


そうして何とか頑張って居たのに、このところ一気に落ちましたね。

何事にも興味が無いようで、夕食も食べる量が減りましたね。


それで入院をとなりました。


大きな病院は受け付けてくれないからとなって、小さい病院です。


僕が行くと嬉しそうでしたが、帰りには寂しそうでした。

二日続けて行くと妹と妹の旦那と甥っ子が来たあとらしくて、僕に強く手を握りながら家を頼むと言いました。


僕は笑いながらそんな事を言うもんじゃないし、しぶといんだからまだまだ大丈夫と言いましたが、帰りに非常に辛くなりました。


一時期は、年商十億のトンネルの下請け会社の社長でした。

小さな街で年商十億の土木会社なんて、そんなにないですよ。


何処に行っても二十代は社長の息子と見られましたよ。 

これは僕の本意では無かったけど、仕方ない事でした。


父は、兄を戻して会社に入れた時は兄の方に期待したと思いますが、兄はアルコール中毒鬱で直ぐに駄目になりました。


兄は、その後会社倒産後も当然何処からも誘いが無くて、不細工な女と暮らしてました。


僕にはケータイが何度か掛かってきて、金額は覚えて居ないけど二十万円から三十万円は兄に渡して、兄弟の縁を切りました。
   

父とおじさんと僕とは同じ会社でしたが、僕はおじさんに付いてたから後で知るんですが、母も合流して一つの現場だけ父が所長して母が炊事をした所が有ります。

そこに延々とファックスで、恨み事から金の無心から入ってきたらしいです。


ある程度は送っても、二人とも難しいからそんなに沢山送れないですが生活費位は送ってたらしいです。


僕はその頃兄と縁を切ってせいせいしてたし、おじさんとあちこち現場を回ってました。


流転の日々を、ある程度楽しんでましたよ。


父とも広島で一時期は暮らしたし、そうしてたら九州でもう一度仕事をするからと言われました。


僕はその時事務を任されてて、これは太ってしまいこれでは不味いで、二ヶ月で十五キロ以上落としました。


父が僕に頼んだのは、お前は作業を見ろと良い作業員には声を掛けておけです。

おじさんが所長で、その下に僕を付けるつもりだったのだと思います。


形態としては孫請で父が入る形を取るようでしたが、ギリギリで駄目になります。


この時、僕は完全にフリーになってしまって居たけど、三十代半ばですから特に気にしなかったです。

仕方ないな、です。

今住んでる街に越したのも、これがあったからです。


僕は、その後おじさんと組んだり組まなかったりで、フリーで生き残ります。


四十代を迎えて直ぐに、今の会社に社員として入りました。


それから現在に至るですが、社員としてフリーに動かせて貰ってるけど、何でも屋です。

営業もするし、時にはダンプにも乗るし、です。

特にこの数年は、自分自身の良いと思える作業員しかなるべく使いません。

お陰で仕事を取るのが非常に楽になりましたね。


あそこの会社は作業員が良いと言うのが噂として挙がるし、実際そうですね。


それは、作業員に感謝してます。


この辺りの作業員をいかに使うかは、おじさんと父の影響です。


話しが散らかるし、父への思いだけを書くならサイトに書くので父と兄の関係を書きます。


兄は、僕が三十代半ばで沖縄に仕事で行ってたら、何故か家に居ました。

最初は再会を喜びました。


いずれ出て行くだろうと思ってましたからね。


何故戻ったかは、また飲んでしまって救急車で運ばれたんですよ。

僕は近くの小さいトンネルをやってて、毎日通ってました。

段々兄の部屋に荷物が増えるのを見てて、え!?ですよ。


あれだけ家族に縁を切ると言っておいて住むつもりか、です。


不細工な女との関係が壊れたらしくて、いつの間にか居座りましたよ。


僕が東京の大きい現場から戻ると、全く違和感無く居ますからね。


そこから兄の経済的な話しになるけど、僕は当時はフリーですし自分自身まだ借金返してなかったから、人の事など知らないです。


しかし、僕がその後今の会社とかなりの好条件で社員になると、父から兄の借金も見てやってくれないかと来ました。


父も六十代でしたが、小さい現場に作業員として出てました。

母は、他の会社から誘われて炊事としてかなりの好条件で行ってて、父が言うなら仕方ないである程度は面倒見てやるでした。


母が戻って甥っ子が生まれた頃に、父が脳内出血で倒れます。

六十代半ばですね。


母は、しばらくすると温泉旅館のアルバイト始めます。

この辺りで母と金銭面を話し合いますが、父も入ってきて折り合いがつかないです。

それなら出せるだけ出してやるよって感じでしたよ。

自棄ですよ。父の借金も母に隠れて払って、兄の分もかなりの部分を見てやって家にもかなり入れました。


しかし、それでも父の年金が多かったから何とかなってたんです。

兄はほとんど出さなくてもね。

そういう時に兄が狂って、父をギターで殴ると言うのが起こります。


止めに入って二十数発パンチ受けますが、兄のようなパンチが僕に効くわけないんですよ。

父と兄は、表面は仲良いふりをしながら完全に決裂しますね。


それでも父の質素な部屋の机の中を見ると、某有名レンタルビデオ店のカードが有ります。


最初、何故父がと思って母に聞いたら、兄がその店で万引きして出入り禁止になってて父にカードを作ってくれと頼んだらしいです。まあ、はっきりした証拠も向こうは掴めなかったんでしょうけどね。

その店に何故行かないのか不思議でしたから、あーあやったのか、でした。

兄にはそういう癖が有りましたからね。


母に聞くと万引きを間に入って何とか警察沙汰にしなかったのは、某レンタルビデオ店だけで無くて父が庇ったので他にも三軒はあるらしいです。

父が間に入って、頭が少しおかしいからとか言ったのだと思います。


それで逃れてるんですが、この間初めて捕まりましたけどね。


二人で車に乗ってたら父に対して兄は酷いこと言いますが、それを聞いたらお前なあいい歳して万引きした上に父に庇って貰ってて良く言うよです。


父が積極的に兄の援護をと言わなかったら、今頃兄も僕と同じくらいの貧乏ですよ。


兄は精神障害の年金取ってるけど、かなり前から二級に上がってて僕より小遣い多い状況です。

それを指摘したら狂って大変でしたから今は言わないけど、父の保護がなければ兄はやれてこれてないんですよ。


これが最近始まった事では無くて、東京で専門学校行ってバンド活動を二十代後半までしますが、その間も相当な仕送りしたと聞いてます。


そして戻って、暫くしたら父の会社に数ヶ月入って病気で休業ですが、三年以上は給料出てましたからね。

自分自身は自立してて芸術家ぶるけど、五十を過ぎても父の保護なしでは生きてないんです。


しかし、それを言えるかとなれば簡単ではありませんし、母も妹も言えないでしょうね。

僕が言ったら大騒ぎですが、今回の父の状態次第では兄が狂ったら押さえつけて何処かに入れるくらいのつもりで居ます。


そうでないと自分自身が生き残れませんからね。


父は兄は憎んでたし僕とも喧嘩をしましたが、自宅で最後の時にアイスクリームがあったから母に食べさせてあげたらと言うと食べながら僕の指示だろうと言ってたようです。


母が困ったら僕に聞いてくるから父は何かにつけて母にお前に知恵をつけるのは僕が上手いなと言ってたようです。


四十代になって兄弟で最も実は信頼してたのは僕でしょうね。


妹は嫁いだから言えないことも多かったけどね。


父の部屋は質素ですよ。

昔に買ったベッドと最低限の
服だけです。

それに最近買い直した小さいラジオだけです。

机も昔のを置いてて開くと今は免許証と某ビデオ店のカードと使い込んだぼろぼろの財布だけです。

結局兄から頼まれてカードは作ったものの、兄から強く言われたら出そうだったらしくて使わないままです。

それだけが、妙に新しいですよ。

それを見ると悲しくなりますね。

自ら招いたとは言えあまりに惨めですし、親戚も皆距離を取ってます。


最初に家の車で病院に行こうとしてたら、父が使ってた安い杖が載ってました。


それを見たら何とも言えなくてね。


かつては高級車に乗って、唯一の道楽とも言える高級時計をしてました。


それがこうまで落ちてしまって、かつての会社の人間は誰一人と心配してない状況にね。

家族で有るし最も似てると言われた僕は、果たして父に優しく出来たのか疑問です。


これからどうなって行って父にもしもが有れば、自分自身がそれに耐えれるかも不安です。


兄と対立して、本当に兄を治める事ができるのか不安です。


何より色々悪かったにしても、まだもう少し父を苦しめなくて生きてほしいと願います。


甥っ子は父が大好きです。


少年野球で守備はいまいちでも、打撃で五年生でレギュラー取ってます。

もう少し父を苦しめなくて生きてほしいと願います。


そして自分自身も父の背中を追いかけたんだから、もう少し生きていてよと思います。


優しく出来なかったではと後悔してます。

これを書いてたら涙が出ます。


読んだ人が、七十代半ばの父親の容態が悪いだけでそんなに悲しいか、と言うなら悲しいと言いますよ。


僕は弱いですよ。

弱いし後悔ばかりです。

兄を何とかしていればと思いますが、本物のきちがいと付き合ってみたらそう簡単ではないと分かりますよ。


とにかく僕は父に生きてほしいです。


脳内出血をやった時にリハビリの人がここまで治るのかと驚いてましたから、生きられるだろうと信じたいです。


おわり

高山の作品紹介
次回は随筆「ガーターベルトの女 5」

「ガーターベルトの女」~映画化のために​

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「ガーターベルトの女 外伝」(フィクション編) 1
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