mix「一郎の日記」を振り返る[53] 2007/7/1(日) ~7/5(木)

mixiに書いていた日記をまとめました
Twitterを始めたことでmixiは全く利用していませんでしたが
mixi日記を読み直すまとめ作業のおかげで
新たな一つの目標が出来ました

2007/7/5(木)

第159号 2007.7.4(毎週水曜日発行)     2004.6 創刊

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  啄木の歌とともに
   (その三)


  「一握の砂以前」
     -75-


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啄木の歌を手本に手慰み
一日一首
ただあるがまま  (一郎)
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参考資料「石川啄木作品集 第一巻」昭和出版社(昭和三十八年十二月一日発行)

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2007/6/15(金)~2007/6/21(木)
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    明治四十一年のノートより

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日付:6月22日(金)
啄木

我いまだ忘れず壁の三味線とまたその部屋と部屋の主人を


一郎

過去すべて
忘れてもいい忘れたい
忘れて明日を明日を夢見る

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日付:6月23日(土)
啄木

我すでに三年日毎に一輪の花を贈ると饑ゑて暮せど


一郎

啄木の歌を友とし
つたなくも一日一首
すでに三年

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日付:6月24日(日)
啄木

我は今のこる最後の一本の煙草を把(と)りてつくづくと見る


一郎

FMのラジオ番組つくるため
自然の流れ
タバコは止めた

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日付:6月25日(月)
啄木

かくてまた我生涯の一巻の劇詩の中の一齣(せつ)を書く


一郎

還暦を迎えるからは
一日を最期と思い
明日に生きる

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日付:6月26日(火)
啄木

父と母猶ましませり故に我死ぬを得ざりとまた筆をとる


一郎

何かしら生きた証を遺さんと
欲捨て難く
模索するのか

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日付:6月27日(水)
啄木

兒よといひわが頬撫でけむそのみ手の病みて動かずなれる母はも


一郎

頬撫でる
無精ヒゲのび手触りが
心地よければなりは構わず

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日付:6月28日(木)
啄木

父母のあまり過ぎたる愛育にかく風狂の兒となりしかな


一郎

父母は
わがままな我見守りて
何も言わぬは信じるがゆえ

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。
一郎

2007/7/4(水)

あるコミュへの投稿から・・・


2007年07月04日
17:58
3: 一郎 | 削除
吉祥院にあった運送会社の京都営業所・・・そこの事務所の2階が寮になっていました。
そこが私の京都生活のスタートになりました。
大阪、名古屋の営業所と移っていました。「札幌30」・・・おぼろげながらそんなことを考えていました。名古屋から次は東京、そして仙台か青森を経て札幌へ・・・放浪的な人生になるだろうと・・・。
それが京都へ戻ることにしました。京都での生活を体験しておきたかったのでしょうね。それは単純に、なんといっても古都京都ということもありましたし、政治的には革新的な気風の強さに興味を持っていたこともあります。でも長くても2~3年ぐらいと思っていました。
ところが・・・すっかり京都に根が生えてしまいました。京都に来たのは25歳ぐらいでしたから・・・私の記憶力ははなはだ悪く、なにごとも「ぐらい」としか言えません。
今年12月、還暦を迎えます。つまり35年ぐらいを京都で過ごしたことになります。もうこの年になるとどこか違った土地で新しい生活を・・・ということはよほどのことが無い限り難しいでしょうね。

運送会社を辞めて寮を出たのは・・・これもあいまいな記憶しかありません。少し涼しくなった頃か・・・ともかく島原の近くで、やはり配送の仕事をすることにしました。やはり住み込みでした。工場が改装中で、その2階にある寮もまだできあがっていませんでしたが一応は個室になっていました。
ここでの仕事はすぐ辞めたと思います。そして北区の船岡山の近くの古いアパートの小さな小さな部屋・・・階段の下の物置部屋のようなところに引越しました。寮から初めて脱出したわけですが、なにせ貯金も無い身ですので物置部屋でのスタートも仕方が無かったわけです。ことほどさように私はお金に縁がありません。何に使ったのか、給料が安かったのか・・・まったく計画性がありません。それは人生においてもそうですね。いい加減なのです。

船岡山の近く・・・若草町といいましたが、まだそのアパートの近くには貸本のお店がありました。昔は貸本の店があったのです。今はレンタルビデオ店がありますが、若い人たちには貸本の店など知らないでしょうね。私の世代でも存在は知ってはいても利用していたかどうかとなると、おそらく利用していた人は少ないかもしれませんね。

レンタルビデオ店のことを書きましたから少しそのことを書いてみますか・・・。
多くのレンタルビデオ店が開店しましたが、生き残ったのは大手のお店だけになったようです。
ビデオが爆発的に売れ、レンタルビデオ店が町々にできたのは私が30代半ばの頃だったかと思います。ですから25年前ぐらいになりますか・・・。
レンタル料金を覚えていますが、なんと1本1000円でした。今なら160円から200円でしょうか・・・。
当時の映画館の大人料金が1400円くらいでしたか(今は1800円ですね)・・・だから1000円でも映画館で映画を観るよりは安かったわけです。それにいわゆるバブルのはしりでしょうか・・・1000円でも一日に2~3本は借りていたのです。
家でHなビデオを見られるという便利さ気軽さもありましたね・・・私のようなスケーベーおやじには。
レンタル店では裏ビデオのダビングサービスもしていました。当然裏ビデオも手に入りました。

バブル経済がはじけ、世は構造改革、価格破壊と産業界では生き残りをかけた再編強化、まさに弱肉強食の時代に突入します。

いまはレンタルビデオ店ではビデオよりDVDがメインになっています。私も土日になると2~3本は借りてきます。これも観なければ観ないですむのですが、観だすとクセになりますね。
観たいものはたいがい決まっていますから、しばらく続けると観てしまってまた飽きることになるでしょうが・・・。
そのDVDで観た映画のことはまた映画コーナーでぼちぼち書くことにします。ここは「京都のことなど」のコーナーでしたね。かなり脱線してしまいました。
島原、北区、船岡山、若草町・・・私が住んだ京都の町の名前を書いただけでしたが、京都にお住まいの方にはあるいは思い当たる方がおいでかもしれませんね。

観光案内にはならない、いたって私的な「京都のことなど」でしたが・・・よろしければまたお付き合いください。

それではまた・・・ごきげんよう。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。
一郎

2007/7/3(火)

あるコミュへの投稿から・・・


2007年06月14日
17:17 京都のことなど
一郎

二十で大阪に出てきました。はっきり言えば家出です。
25歳で東京、札幌30・・・そんなことを漠然と考えていました。北へ流れていくイメージですね。
大阪から名古屋に移りました。そして京都へ・・・25歳のときでした。京都を知らずに東京へ行くのはまずいと思ったのでしょうね・・・ちょっとだけの寄り道と思っていました。
それが・・・今年12月で60歳になります・・・還暦ですね。
京都に住んで35年ほどになるということですね・・・。

私なりに京都のことを書いてみようかと思います。
みなさんもこだわりの場所やお店・・・京都についてのあれこれを遠慮なく書いてください。

ということでこのトピをスタートです。
どうかよろしく・・・。


2007年06月17日
19:23
1: 一郎 | 削除
南区吉祥院~その1

 京都に来たのは性格には何歳だったか覚えていません。一事が万事、私の記憶はあいまいです。両親や姉たちの誕生日も覚えていません。自分のことしか関心が無いということなのでしょうね。
 トピックに京都に北のは25歳のときと書いていますが、それもあいまいです。京都営業所があったところが南区吉祥院、まだ周りは田んぼでした。
記憶では十条通りと久世橋通りの間だとは覚えているのですが、はっきりした場所の記憶ははっきりしないのです。
地図を見てやっと何町だったかを思い出しました。それから営業所を西に行くと公園がありその少し北に吉祥院天満宮があって西大路十条に出たようです。

 今年の12月人生の区切りとなる還暦を迎えるからか、これまで思い出したことも無い吉祥院の営業がどうなっているか確認したくなりました。
京都営業所は大型トラックが2台並べばいっぱいのホームとその横に2階建ての事務所兼寮がありました。私もその寮に住みましたが、寮の記憶はほとんどありません。
何人働いていたのかも、所長が誰だったかも覚えていません。年配の2人は覚えています。何の事情があったのかその一人は元教師ということでした。もう一人の容貌は覚えていますが、そのほかの事情はまったく覚えていません。
 運輸会社といってもまだまだ雲助的運送屋稼業という感じでした。夏になればステテコ腹巻姿の助手や運転手もいたのです。
大阪に来たころが1970年の大阪万博前、開幕時にはまだ大阪に居たような気もしますから、京都に来たのは万博終了後2~3年というところでしょうか。万博は、日本が高度経済成長を世界に示した大イベントでした。
いろんな意味で日本が大きく変わろうとしていた時期だったようです。その変化に取り残された企業や人は消えていきます。
 京都営業所での仕事や寮の記憶があまりないのも、おそらくはその年の秋には・・・来たのは5月頃だったか・・・会社を辞めて他の場所で住み込み働くことになったからだと思います。
 その次の職場は西本願寺の近くにありました。小学校の給食用の食パンの製造と配送・・・ちょうど新しい工場が建設中で、まだ未完成の工場の2階の寮に住みこむことになります。私のほかにパン職人さんが2人住みこんでいたようです。私は配送が主な仕事でしたが、配送に出るまではパンづくりを手伝いました。
 でもそこも長くは居ませんでした。水商売・・・バーテンの仕事に移っていくことになります。
次に越していったのは北区・・・船岡公園の近くのアパート。そこで三畳もない階段下の狭い部屋を借りました。お金が無かったからで、京都の初めての冬をその部屋で迎えることになります。
まだ仕事先は決めていませんでした。仕事も友も金も無い、まだ若かりし頃の私でした。
今住んでいる部屋は2部屋にはなりましたが、お金が無いのは昔も今も変わりません。
 さてその吉祥院の初めて住んだ運輸会社の京都営業所を確かめに行ってきました。先週の金曜日のことです。曇り空でしたが雨は降りそうにはありません。吉祥院の住んだところを確かめてみたいという思いがつのっていました。そしてこのコミュのティティという喫茶店にもいってみたいと・・・。
 出不精な私が、その日は出かけることに心が決まっていました。出かけてからのことも書こうと思っていましたが、もう書く気力がなくなってきました。そこで結果だけを書いておきます。


2007年06月17日
19:25
2: 一郎 | 削除
南区吉祥院~その2

 西高瀬川を渡ったすぐの信号から一筋南の通りに見覚えのあるホームの屋根が見えました。事務所兼寮の2階建ての家はもうなくなっていましたが、たしかにホームのゆるやかな屋根と色、当時も使うことが無かった移動式の錆びたクレーンもそのままにありました。閉じてある門にはある建設会社の工作所と書かれていましたが、実際にいま使われているかは分りません。かなり前から当時働いていた運輸会社のトラックを見なくなっていましたので、会社は無くなっているは想像していました。でもホームの建物が残っていたのには驚きました。
 それからもうひとつ驚いたのは、会社の西側にまだ畑が残っていたことです。2面の畑はネギがいっぱいでした。

営業所から西の方にあった公園を確認しました。高畑町というバス停がありました。そこから吉祥院天満宮も見えます。そしてその先はもう西大路十条・・・。

 十条通りを東に・・・近鉄十条駅から徒歩2分というパソコン喫茶ティティを探すことにしました。私は行きありばったりがすきなのです。前もって聞いておけば探す苦労も無いのですが、見つかれば良し、見つからなくても良し・・・という思いでした。縁があればみつかるだろう・・・と。

 これも結果だけを書きます。高架の東側、駅から北へ一筋のところにお店はありました。しかしお店は閉まっていました。
金曜日の4時頃、この時間にお店が開いていないということは・・・。

 ともかくも先週の金曜日の私のチョッとした青春プレイバックは終わりました。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。
一郎

2007/7/2(月)

あるコミュへの投稿から・・・


2007年06月19日
21:25
3: 一郎 | 削除
映画を観るといっても最近は映画館で観るのではなくDVDで観るのがほとんどですね。
本来、映画は映画館の大きなスクリーンで観るものでしょうが、めっきり出不精になった私にとってはDVDで映画鑑賞ということになります。

好きなジャンルをいくつか書きました。ダンス映画、ヒロインアクション物、音楽物、そして「赤狩り」のもの・・・。
純愛物、恋愛物やいわゆる大宣伝される大作物はほとんど観ません。たとえば「パイレーツ・オブ・カリビアン」・・・つい最近、TVで放送されたのを初めて観ました。映画の題名は知っていましたが、海賊ものなんてどこが面白いのだろうと思っていました。TVで観たのですがそこそこ楽しめましたね。
映画解説者の淀川長治は、どんな映画でもどこかいいところがあると言っていました。映画が大好きな淀川さんは、どんなにつまらない映画でもどこかいいところを見つけて褒めていたのでしょうね。映画を愛すればこそですね。

このところDVDを続けて借りてきました。その中に以前から気になっていた映画がありました。いつもは観ない恋愛もの・・・「セレンディピティ」をやっと見つけたのでした。
どうしてこの映画を観ようと思ったのかはすっかり忘れていました。当然誰がでているの、どんな内容かも覚えていません。ただ映画の題名だけは覚えていたのです。

クリスマスプレゼントを買う人で混雑していたある店で、偶然ひとつの手袋を同時に手にした男女の出会いから映画は始まります。また逢えるかどうかお札と本にそれぞれの電話番号を書いて別れます。数年後、それぞれ結婚が近づくのですが、どちらも以前偶然に出会って別れた相手のことが気になり、どうかして居所を探そうとする・・・。さて偶然に出会った二人は再び出逢って幸せを手にすることができるかどうか・・・。

映画を観終わって女優の名前を確認しました。ケイト・ベッキンセイル・・・馴染みの無い名前・・・検索してやっと思い出しました。なぜこの映画を観よう思ったのかも・・・。
時間つぶしにTOHOシネマズ二条で観た映画・・・「アンダーワールド」のヒロインでした。この映画・・・狼男とバンパイアの闘いのようなホラーもの?はほとんど観ない私です。
一番時間の都合がよくてポスターからヒロインアクションものだと思って観たもので、映画の内容などは知りもしませんでした。
内容はともかくなんといってもヒロインがクールでかっこいい。特撮も違和感なく見事だった。そんなわけでこのヒロイン役の女優役が気になって検索。それがケイト・ベッキンセイルで「セレンディピティ」に出ている・・・というわけでこの映画を観てみようと思ったのでしょう、その題名だけが頭に残っていたわけです。そもそもの「アンダーワールド」のことはすっかり忘れていましたし、「セレンディピティ」を観ていてもその女優が「アンダーワールド」のヒロインとは結びつきませんでした。私の記憶のいい加減さが分かりますね。

いい加減さはまだまだあります。これもつい最近DVDで観たのですが「ウルトラヴァイオレット」・・・例によって私好みのヒロインアクションもの・・・。主役のミラ・ジョヴォヴィッチが「バイオハザード」のヒロインだったこと、そのたもろもろの作品での彼女と結びつきませんでした。
私の映画的関心の浅さが分かってしまいますね。そんなところです。

どんな映画も観てみるものですね・・・いいもんです。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。
一郎

2007/7/1(日)

あるコミュへの投稿から・・・


2007年06月15日
01:59
2: 一郎 | 削除
映画のことというより母との思い出ということになるかもしれません。少し書いてみますね。

私が生まれたのは島原鉄道の神代駅の近く・・・ということは書きました。父の母親の実家があったのです。父の両親は離婚していました。いわゆる世界大恐慌のあおりで祖父は事業に失敗して自殺しています。
その後になるのか、父親は祖母の援助を受けて単身朝鮮に渡って仕事をしていたようです。そこで母と出会って結婚・・・姉二人ができたわけです。
かなりはしょってかきますが・・・詳しく書けるほどその当時のことを私は知らないのです。二人目の姉が生まれて間もなく
終戦を迎え、日本に引き揚げることになったようです。その時の大変な様子は聞いたことがありますが、思い出すことも無かったのでもう忘れてしまったことが多いですね。
祖父は自殺していなかったわけで、頼るのは祖母ということになります。そこで祖母の実家の長崎は島原鉄道、神代駅の近くに住むことになり、私が生まれたということです。
父は、しばらくはそこで仕事していたようですがなにせ田舎のこと、家族を養うために長崎市内で仕事を探そうということになったのでしょう・・・先に単身で長崎市内に出かけていったのでした。

私がいくつの頃長崎市内の父の元に移ったかは覚えていません。ただ幼稚園のことは記憶にあります。それは長崎市内のことでしたから、幼稚園に上がる前には移っていたようです。幼稚園に上がるとは書きましたが・・・実は不登校・・・じゃないな、不登園児?だったんですね。
ま、そんなことはどうでも良くて映画のこと母のことに話を移さなくてはいけませんね。そのことを書くためにも神代から映画館のたくさんある都会の長崎市内へ移ったことを書いておかなくてはと思ったのでした。回りくどいのが私の性格か、文章も回りくどくなりますね・・・どうかお許しを。

労働組合の仕事をするようになった父でした。当然ほとんど収入は無く、母が和裁の内職をして支えていたようです。
当時の娯楽と言えば映画。貧乏していたのですが、父は私たち三人の姉弟をよく映画につれていってくれました。子どもはまだ小さかったので、タダにしてくれと交渉していたようですよ。これは私が少し大きくなって姉たちから聞いたことです。
このように映画の思い出と言えば父とのことになります。
おそらく母は、映画にも行かずに内職していたのだと思います。

その母と映画に行った記憶があるのです。記憶では1回だけ・・・もっと行ったのかもしれませんが、おそらくはその1回だけだったのでしょうね。いくつの頃かは覚えていませんが、その映画の大まかな内容もタイトルも覚えています。
「海底2万哩」・・・母といった映画です。DVDも出ているようですのでぜひ観てみたいものです。

お読みいただきありがとうございます。
同じことが多くなるのは年のせいだとお許しください。
それではまたあした・・・ごきげんよう。
一郎

mixiプロフィ
藤川一郎
京都市北区紫竹北大門町37 葵荘17号
075-493-4676

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