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雪国の事を想う 2

 そして仙台、山寺,経由山形駅にて降り、乗り換え奥羽本線米沢、福島方面行に乗り換えて約50分ほど乗車、さらに私鉄線で終着駅で降り立った、その時から当地の郷愁深いからだにしみ込む豊かな季節感あふれた生活が始まった。戦争前後のあの時代は何処も彼処も生活苦は始まっていたが、幼児ながら、東京での生活は買い出しなどやっていたが、3月10日の大空襲に会うまでは多分にどうにか母もいつも常に明るく心豊かな生活をしていた。しかしこの疎開先は、冷たいみぞれ雪交じりの駅に降り立った時、自分の旅の姿を見直して、東京生活だったので、服装は国防色と言われるカーキ色の帽子、洋服(半ズボン)、靴下をはいて、革靴(クジラの皮製)まだ冬の寒さが厳しいが、オーバーや雨合羽など無しであり、雪解けが始まっている田舎の泥道を滑りそうになったり、転んだりしながら、祖母の家に一時間ほどかけて着いたのだ。
 その道すがら靴のなかはグショぬれ、だが、足底は熱く、冷たくないのである。その代わり足底は赤に近いピンクのようになって冷たくないがやたら痒いのだ。祖母がそれを見て母に「足をゆっくりもんでケロ(方言)」と言ったのである。それで痒さが消えるようだ。後に分かった事だけれど「雪焼け」というらしい。こうして疎開で私鉄T線(計画では宮城県K村まで当私鉄線を延伸予定のようであった)の雪の終着駅で降り立った時から“まんず第一に(これは方言)”当地のまだ冷たい季節感が体にしみ込んできたようだ。
そして繰り返しになるけれど、のちに山寺にはずいぶん訪れたなあ~、うん・・、そういえば幼い自分には、無論、芭蕉や、山寺(立石寺)の事は知る由もなく、母が「やまでらの和尚さん」と言う童謡をふざけて歌って、踊って見せてくれたり(実際は立石寺の坊さんをモデルにした歌ではないようだが・・・)したので、ずっと強い印象となっているのかも知れない
 そして山寺への郷愁を起こすのは、特にcovid19以前までの約20年間で山寺の本堂までの1019段ほどの階段を克服する決意をして、自分の体調や「足」強弱の目安になるように、2,3年に一回で春夏の何れかに上り下りすることにしていたのだった。しかしこの3年は全くやめている。ただ、今では、想いもしなかった独居生活を恙無く全うするために?超高齢になると足腰の弱化はさけられず、体質や歩行バランスが崩れやすくなり勝ちなので、2、5㎏ほどの軽量で小さなダンベル?をもち日々5千歩以上散歩、一日トータル7000~8000の歩行をめどにしている。おかげで200メーターほどの、胸突八丁?の急勾配の坂道もじっくりとのぼれば息切れもしなくなったようだな・・・。(表題の富士山は修善寺方面からの望遠実写2023.2.27)


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