手の役割とは何だろうか?

ダリアン・リーダー氏の訳書『HANDS -手の精神史』を読了。本著では人の精神や行動を手との関わりという視点で考察している。これまで、手を独立した存在として考えたことが無かったため、新たな視点を得たようで面白い一冊であった。特に、スマホ等のテクノロジーに関しても、手を動かし続けるための手段であるから辞められない、といった部分は新たにテクノロジーの役割や位置付けを考える上でも重要な視点かもしれない。

本著を読んでから1日程度、少しだけ意識しながら自身の行動や周囲の観察をしていたけれど、確かに手が完全に止まっているというケースは殆ど見かけなかった。自身の行動を振り返ってみても、歩いている最中でも手を動かしている瞬間はあるし、ポケットに手をいれていても完全に止まっている訳ではなさそうだ。スマホはもちろんだが、本を読むときも抱えたりめくったりしているし、今現在文章を書いている手はキーボードを打っている。食べる時は箸を動かしたり、パンを掴んでいるし、寝ている時は布団や毛布を掴んだり、身体のどこかに触れていたりする。手が遊んでいる時間というものは存外に少ない。暇や退屈な時間を手持無沙汰というが、手を用いた言葉や慣用句というものも確かに多い。

本著にも記述されているが、手を能動的に動かす対象として、スマホは手や指の動きも複数に渡るから、手にとっては刺激に満ちた対象かもしれない。それに加え、画面上には自身が興味を持っているニュースや動画が選別されて映される訳だから、手/眼/脳全てにとって魅力的な行動となり、依存しやすくなるのだろう。

一方、本著では、かつてスマホを代替していた対象としてタバコ、お茶やお菓子、編み物、レゴ、執筆や落書きなどが挙げられていた。ただ、個人的には少しだけスマホとこれらの対象は違うのではということも感じた。スマホも含め、いずれの行為も能動的に開始することは共通している。一方でスマホの場合は画面に出てくる情報は完全には予期できない訳だから、結果に対しては受動的な側面が強い。

それに対して、編み物やレゴ、落書きなどは創造や生成の作業となるため、あらかじめ思考や想像で結果物を予測していると言える。つまり、これらの行動は、結果に対しても能動性を発揮しているのではないだろうか。そう考えると、主体性(能動性)の及ぶ範囲がスマホでは狭くなり、かつ依存によりその状態が継続されやすいため、ヒトに影響を与えやすいのかもしれない。

最近は全体から俯瞰する考えに偏りがちではあったが、本著で手にフォーカスしているように、細部から全体を考えていくことも重要だと改めて感じた、興味深い一冊であった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?