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「召天」か「永眠」か

 教会では、亡くなられた方を想起して行う礼拝がある。これを「召天者」記念礼拝と呼ぶのか、「永眠者」記念礼拝と呼ぶのか、実はぼくの通う教会では、しっかりと定まっていない。人によって呼び方が違う。「どっちですか?」と訊かれることもある。
 どっちが正しいとは言わないし、言えないから「自分がしっくり来る方でいいですよ」と答えているが、いざ当日の週報にはどちらか書かないといけないから、自分の感性に合うように「召天者」と書いてもらう。
 しかし、考えてみると「召天」と「永眠」では随分と意味に隔たりがある。

 「召天」だと神に召されて(呼ばれて)神のところに行き、そこでいつまでも安らぎを得ながら憩う、というイメージが湧く。
 また、ぼくは普段使わないが「天への凱旋」という言葉を使う人もいる。これは、この世は戦いの場だという前提があるのだろうか。

 これらの言葉に共通しているのは、亡くなっても、天で「起きている」というイメージだ。つまり、亡くなった人は天の神のもとで意識があることになる。

 これに対して「永眠」では「永遠に眠る」であり、意識は無いことになる。
 精神の活動は全て脳に帰されるとするならば、永遠に眠るという方が科学的には正しい。
 また、聖書には人は死んだら「眠りについた」と書いてあったと思うし、いつかは復活する時も「眠りからさめる」「起こされる」ということになるので、聖書的にも「永い眠り」とする方が正しいのだろう。

 また、カトリックでは「帰天」という言葉が使われ、個人的にはこれがいちばん好きな言い方だが、これは考えようによっては聖書的ではないということになる。
 (「それ見たことか」と「聖書のみ」のルターが笑いそうだ)

 個人的には「召天」または「帰天」という言い方が好きだ。かと言って、煉獄で罪を償うという考えもぼくは信じていないが。
 亡くなった方は、今は地上の苦労、苦痛、苦悩から解き放たれて、どこか異次元の世界にいる神さまの近くで、ほっとして休んでいる。そして永遠の平和の中で楽しく暮らし、時々我々地上の人間のことを見守ってくれている。
 地上では「2度と会いたくない」と思っていた人とも、そこでは和解できていて、お互いに「地上では苦労したね、おつかれさま」と言い合える、舞台で言えば楽屋のような世界がそこにはある。
 そんな風に思いたい。そして、葬儀や記念礼拝の説教でも、そんな前提で話している。

 神学的に正しいとかどうとかいうことには、あまり関心がない。自分や自分の周囲の人が、どう考えればいちばん慰められるかを考える。
 死後のことはわからない。想像するしかない。ならば、自分の心が落ち着くような想像の中で生きた方がいいと思う。
 科学的に間違っていても気にしなくていいと
思う。人間は科学の世界だけで生きているのではない。人間は物語の中で生きるものでもあるのだから、好きな物語の中で生きて、それが最も自分でしっくり来るのであれば、それでいいのだと思う。

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