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『ガリラヤに生きたイエス いのちの尊厳と人権の回復』山口雅弘、ヨベル、2022

 まず著者はイエスの死に際して、「十字架」ではなく、「晒し柱(さらしばしら)」という言葉を使う。
 イエスは「反逆者・政治犯」として虐殺された多くの人間のうちの1人に過ぎない。そして、イエスの殺害は、見せしめとして権力者が民に晒すために行ったものである。だから、これは「贖罪」の徴として美化された「十字架」ではなく、「晒し柱」と呼ぶ方が、事の本質を示すには相応しい。

 本書は、イエスが突発的に登場した宗教的天才であったのではなく、ガリラヤがイエスを育てたと主張している。
 搾取され、貧困に喘ぎ、病に苦しみながら、知恵を巡らせて必死に生き延びようとするガリラヤの人びとの生き様から、イエスはひとりの貧しい兼業農民として、その生活力と反骨精神を吸収した。
 そしてその上で、ある時「社会的動機あるいは宗教的衝動」によって、「いのちの尊厳と人権の回復」そして「解放」を目指して行動を開始したのがイエスであるというのである。

 イエスは「神の国は近づいた」と教えて回る。それは、人間を人間らしく生きさせない(「非人間化」する)政治的・宗教的権力による「人の支配」ではなく、それに代わる「神の支配」が始まるのだという希望の宣言だった。
 そして、その「神の支配」の実現は、神にお任せして終わりなのではなく、人間が自ら自分たちの解放に向けて動き出すことによって実現する。それは具体的には非暴力的な抵抗運動によるものである。
 また、イエスは「手当て」による「癒し」によって病気や障がいを克服する。この「癒し」にも社会的な動機がある。為政者や宗教者が引き起こしている社会的構造悪が、貧困や栄養失調、飢餓、心身の病を引き起こしているからである。「癒し」はイエスによる抵抗運動のひとつなのだ。
 さらにイエスは、共に食べるという行為を大切にする。5000人を食べさせるという物語は、少ない食べ物を分け合って一緒に食べることによって「神の国の宴」を実現することにより、多くの飢えた人びとの間に「憩いと交わり」の時を生み出していった体験が、その核にある。
 
 そのようなイエスの「教え」と「癒し」と「共食・共生」の三本柱は、現代風に言えば「ヒューマニズム」に他ならない、現世的な運動である。
 多くのキリスト教研究者たちは「神中心主義」を振りかざしてヒューマニズムを批判する。しかしイエスの活動は、「神の支配」を人を通して実現しようとする、究極のヒューマニズムである。「人の支配」ではない「神の支配」が、本当の意味で人間に尊厳と人権を回復し、苦しみから解放する。
 つまり、イエスにおいては「神の国」という概念と人間中心主義が両立している。そして、そうやって人間を人間らしくし、共に生きることができるということ自体が「福音」なのである。
 そして、イエスのその生涯と運動は「晒し柱」によって終わり、彼は敗北したが、彼は「いのちの尊厳と人権の回復」を「神の国」の名の下に実現しようとする人びとの中に「復活」しているのである。

 さらに本書は「ガリラヤに生きたイエス」の人生を描くにとどまらず、その「強いられた処刑死」を、贖罪のための犠牲として美化してキリスト教の中心的な信仰理解、教義、信仰告白にすり替えてゆくことの危険性を明らかにしている。
 それは結局、権力者の体制を維持するために、「社会的弱者」を犠牲にして、その犠牲を聖なるものとして美化する、「犠牲のシステム」なのではないのか、という問題提起である。
 そして、その「犠牲のシステム」は靖国や沖縄、そして福島において命を落とした人びとの聖化にも現れているものであり、キリスト教はそれと同じ「強者の論理」に陥ってしまっているのである。

 最終的に本書は、処女降誕信仰、復活信仰のあり方にまで踏み込み、従来のキリスト教信仰やキリスト教会そのものを根本から問い直している。
 キリスト教会は、実際に「ガリラヤに生きたイエス」の生と死から、全く乖離し、無関係なものとなり、さまざまな職制や規則でがんじがらめになっている。
 そして、イエスがそれらに対して怒った、権威・権力による人間の「非人間化」に加担している。
 かつてイエスの遺志を継ぎ、「迫害されるキリスト教」であったものが、いつの間にか「迫害するキリスト教」になってしまったのである。

 本書はこれらのイエス探究とキリスト教批判を、単に机上の研究結果(もちろん著者はそれも重要なものとしている)だけではなく、著者自身の人生経験や、社会問題の実態と照らし合わせながら語っている。
 ここに神学と生活が表裏一体となり、活きた神学となっている姿が読み取れる。社会の事実と関わりを持たない、観念ばかりを弄んでいる神学は、何ら存在意義を持たないだろう。
 本書は、「弱さを絆に」してゆく生き方を通して、キリスト教がイエスの体現した「いのちの尊厳と人権を回復する」ものとして「新生」することに希望を残している。
 そして、その「尊厳と人権が回復される夢と希望」を抱いて、決して「あきらめない」生き方をしてゆく、不退転の覚悟を込めた決意と呼びかけで締めくくっている。

 クリスチャンは、今のイエス理解がどうなっているのか、またキリスト教の保守的な教義の問題点を知り、キリスト教をいかに生活に根差した、本当に人を活かすためのものにするために、こういった本を読んで学んでみるべきではないかと思う。
 そして、この構造悪に満ちた世の中において、「もしここにイエスがいたら、どう話し、どう行動しただろう」と考えてみるべきではないだろうか。
 その学びは、キリスト教についての自分の思い込みを崩すかもしれないので、気持ち的に楽なものではないかもしれない。しかし、これまでの固定観念に縛られた自分のイエス理解を変革し、視野を広げ、生き方を変えようとするのは、「楽しい」営みでもある。
 新しいイエス理解、キリスト教理解、新しい生き方を手に入れるために、本書のような本を読むことを強くお勧めしたい。

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