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朝井リョウ 最新作『生欲』を読む 1

 わたしも相当な変わり者だという自覚があったが、今回の朝井リョウ作家デビュー10周年作品『生欲』は、それを上回るものだった。

 なにが?LGBTQという最近、認知されてきた「異性愛」がノーマルという考えのさらにその先をいくものだっということだろう。本作が柴田錬三郎賞を受賞したということを新聞で知った。そのことについてのコメントを引用し、わたしが感銘を受けた部分を引用したい。ネタバレの可能性があるのでまだ読まれていない読者は注意されたい。

『正欲』が受賞した柴田錬三郎賞とは?

 柴田錬三郎賞は、傑作『眠狂四郎無頼控』をはじめ、自在な想像力を駆使した作品 の数々でひろく大衆の心をうち、小説の新しい地平を切り拓いたベストセラー作家、故柴田錬三郎氏の名を冠した賞で、現代小説、時代小説を問わず、真に広汎な読者を魅了しうる作家と作品に与えられます。

 発売以来、多様性をめぐる議論が読者のあいだで広がりつづけ、増刷を重ねる『正欲』。作家生活10周年記念の書下ろし作品での受賞は、まさに快挙です。

 生きることと死ぬことで迷ったときに、生きることの方を選びとるために、必要なことは、何なのか。

 この作品は、著者のそんな想いから生み出されました。

――あってはならない感情なんて、この世にない。それはつまり、いてはいけない人間なんて、この世にいないということだ。どんな人間でも、生きていて、いいんだ!――この小説からは、そんな叫びが聞こえてきます。

■推薦コメント
・高橋源一郎さん
「みんなのヒミツ、暴かれた。朝井さん、やっちまったね。どうなっても知らないから。」

・西加奈子さん
「この小説は、安易な逃亡を許さない。」(「波」2021年4月号書評より)

・オードリー若林正恭さん
「無遠慮にお勧めすることが憚られる大傑作。」(インスタグラムで紹介)

■著者コメント
柴田錬三郎賞を今の自分がいただけるとは全く考えていなかったので、青天の霹靂でした。この小説を必要としている人に届くきっかけが一つ増えたことを、本当に嬉しく思います。

■あらすじ
息子が不登校になった検事・啓喜。初めての恋に気づいた女子大生・八重子。ひとつの秘密を抱える契約社員・夏月。ある人物の事故死をきっかけに、それぞれの人生が重なり、繋がり合う。しかしその繋がりは、"多様性を尊重する時代"にとって、ひどく不都合なものだった――。


朝井リョウ 『生欲』を読む 1 

(p278~285)
その放課後に二人で囲んだ、茶色く変色した水飲み場の蛇口。
 あのとき、まず蛇口を思い切り蹴飛ばしたのは佳道(よしみち)たった。
 「私たち、よくここまで辿り着いたよ」
 銀色の向こうで、夏月が笑う。
 佳道は思い出す。水の噴き出し口を蹴ったときの痛み、冷たさ。乱暴にうねる水をもっ
と怒らせたくて、二人で水の根元を蹴り続けたこと。こんな人生ごと蹴飛ばしてしまいた
くて、藤原悟の記事を笑っていたクラスメイト全員をブチ殺してやりたくて、自分をどこ
にも連れていってくれない両脚を椀いでしまいたくて、蹴るたび絶望を重ねていったこと。
 自分の人生なんて、もう、どうにもならないと思っていた。
 頭の中を共有できる誰かと過ごす日々がこの人生に訪れるなんて、全く、想像もしてい
なかったのだ。
 「ほんと、よく生き延びた」
 羞恥心が消えてからは、スムーズだった。お互いに、今の自分が最も興奮する種類の永
の動画を求めて、両手を忙しく動かし続けた。後半、夏月が「この動きに特化した動画、
ずっと欲しかったの」と明かした、中身の見えるプラスチックカップに水を移し替えてい
くという映像は、今思い返してみてもとても耽美だ。水が満杯に入ったカップを高いとこ
ろでひっくり返すことで、その下に待機させていたカップに水が移る。水は、どれだけ激
しい動きでドのカップヘ飛び込んだとしても、少し暴れたあとにすぐ水平線を保つ。それ
は、水の持つ流動性をあますところなく味わえる新感覚の動画だった。水鉄砲の噴射や水風船の爆発、バケツの水を思い切り引っくり返す動画などオーソドックスなものも沢山撮ったが、カップの水の移し替えに関しては、もっと大きな容器で、もっと大量の水で再挑戦したいと思わされた。何とかできる範囲で撮影を続けながら、こういうことを思う存分試せる環境があればいいのにと感じるたび、佳道は様々な特殊性癖の当事者たちを思った。
そして、こうして実践できるフェチに生まれただけ自分たちはまだマシなのかもしれない、
と、なけなしの幸運を握り締めた。
 「今日の私たちって」
 佳道が顔を上げると、夏月はもうデジカメを手放していた。
 「水を使った作品とか撮ってるアーティストつぽく見えてたかもね、周りに人がいたら」
 夏月が笑いながら、つまんだポテトをケチャップにディップする。何を頼むか決めているときはカロリーなどを気にしていたようだったが、もうどうでもよくなったみたいだ。
 空腹時の目算ほどアテにならないものはない。明らかに食べきれない威の糖分と脂質を前にして、「なんかね」と、夏月が白旗でも揚げるように欠伸をする。
 「ああいう、地元にある大きな公園みたいなところにわざわざ出かけたの、私、初めてだったかもしれない」
 タオルが外れ、自由になった夏月の髪の毛が、背中の後ろへと流れる
 「前々から予定合わせて、前日までにいろいろ買っておいたり準備したりして、外出に合わせた服装用意して日焼け止め貸し合ったりして、実際に出かけて、で、性欲を満たすようなことを2人して、帰ってきて」
 夏川の語りに、もう恥じらいはない。
「世に言うデートつてこういうことなんだなって」
 いや、と、夏月はすぐに付け足す。
 「一緒に出かけてる相手に恋愛感情がないって時点でそもそも違うのかもしれないけど、
なんていうのかな、今日はちゃんと季節があったし、社会の中にいる感じがしたし、しかもそれでいて性欲もあったの」
 夏月が首に掛けたタオルが、世間的にいう。”性欲を満たすようなこと”に関わる部位である胸元を、ふんわりと隠している。
 夏月が話した。”外出に合わせた服装”は相手に好印象を与えるという意味ではなく水に濡れてもいいという意味だし、。”性欲を満たすようなこと”とはキスやセックスではなく自分か観たい本の映像を撮り合うことだ。世の中に浸透している意味とは到底重ならないけれど、それでも、夏月の言わんとしていることが佳道にはよくわかった。
 自分の抱えている欲望が、日々や社会の流れの中に存在している。その事実が示す巨大な生への肯定に、生まれながらに該当している人たちは気づかない。
 「私たちって、本の動画撮るために、それができる場所とそこに人がいない時間帯をすごく探ったよね」
 「うん」と、佳道。
 「閉鎖性を保つために、すごく気を付けたよね」
 そう考えると、と、夏月がビールに口をつける。
 「街じゅうにラブホテルがあるって、なんかほんと、何だよって思っちゃった」
 缶ビールの底がテーブルを打つ音が、相槌のように響く。
 「だって、水の動画を撮りやすいスポットが街のいろんなところにあるなんて、そんなのありえないじゃん。それが商売になるなんて誰も思わないし、実際絶対に儲からないし」
 「確かに」佳道は笑う。
 「でも、コンドームはどこのコンビニにも売ってるし、ラブホテルもそこらじゅうにある。そういう欲求があることを、みんなは、街じゅうから認めてもらえてる」
 「水風船のお買い求めづらさったらないもんな」
 茶々を入れる往道に「そうそう」と同意するが、夏月の瞳にはどこか笏が差している。
 「なんかさ」
 その声は、ピアノのミスタッチみたいに響いた。
 「出かけるための準備とかしながら、自分の性欲が、ちゃんと社会とか経済とか、そういう目に見える流れの中に組み込まれてるってこういうことなんだって思ったんだよね」
 佳道は、ウェットティッシュで指についた脂を拭く。イタリア産と書かれていたチーズの匂いが、ぷんと香る。
 「そんな人生、羨ましいなって」
 食欲を満たすものは、古今東西様々な種類のものがそこらじゅうに溢れている、睡眠欲だって、満たそうと思えばいつでもどこでも満たすことができる。
 「ほんとだな」
 生きていくために備わった欲求か世界の方から行程される。性欲を抱く対象との恋愛が街じゅうから推奨され、性欲を抱く対象との結婚、そして生殖が宇宙から祝福される。
そんな景色の中を生きていたら、自分はどんな人格で、どんな人生だったのだろうか。
 「今となってはもう、想像もできないけどな」
 性欲はどんな人にとっても基本的には後ろめたいものかもしれない。だけど、後ろめたいながらも、自分が抱えている欲望は。そこにあっていいもの”なんだと思いたい。
 どんなものを持ち合わせて生まれてきたとしても、自分はこの星で生きていていいんだと思いたい。何もかもを持ち合わせられずに生まれてきたとしても、この星でなら生きて
いけるのかもと期待したい。この世界がそういう場所になれば、たとえ人生の途中でどんな変化が訪れたとしても、生きていくこと自体には絶望せずにいられるかもしれないのに。
 まともじゃない人にいてもらってもね、困っちゃうから。わかるでしよ?
 まとも。普通。一般的。常識的。自分はそちら側にいると思っている人はどうして、対岸にいると判断した人の生きる道を狭めようとするのだろうか。多数の人間がいる岸にいるということ自体が、その人にとっての最大の、そして唯一のアイデンティティだからだろうか。だけど誰もが、昨日から見た対岸で目覚める可能性がある。まとも側にいた昨日の自分が禁じた項目に、今日の自分が苦しめられる可能性がある。
 自分とは違う人が生きやすくなる世界とはつまり、明日の自分が生きやすくなる世界でもあるのに。
 「はーあ」
 大きく息を吐くと、夏月は椅子から脚を下ろし、両手を挙げて思い切り背中を反らせた。
そして、
 「でも、こうやって卑屈になるのにも、もう飽きたかな」
 と、引き抜いたティッシュで勢いよく浹をかんだ。
 こうやって卑屈になるのにも、もう飽きたかな。
 その言葉の持つ響きは、除夜の鐘が百八回分まとめて鳴らされたかのように巨大だった。
 「佐々木君、あのとき私に、生き抜くために手を組みませんかって言ったでしょ」
 あのときという四文字が、岡山のビジネスホテルの記憶に重なる。
 「あれってこういう意昧だったんだって実感すること、普段も結構あるのね。未だに結婚してるってだけで社会に紛れられる瞬間いっぱいあるし。職場でも面倒なこと聞かれないし、変な被害妄想に陥るような視線を向けられることも減った。なんかおいしいもの見つけたときに二人分買って帰ろうかなとか思えるだけで、なんだろう、あー死なない前提で生きてるなって感じられるし、将来のこと考えて上下左右わかんなくなるくらい不安になる瞬間があっても、その不安を共有できる人がいるって思えるだけでちょっと楽になるし・・・・ほんとに、色んなところで、こういうことかーって思う」
 でも、と、夏月がぼんやり、空を見る。
 「それを一番感じたの、今日かも」
 夏月の視線の先には、何もない。
 「最近、自分って社会の大半が規制すべきだと言っているものに生かされてるんだよなとか思って、ちょっと気分落ちてたのね」
 何もない場所を見つめる夏月の表情には、すべてがあるようにも見える。
 「これからもっと帰省が広がって、街のどこ探しても自分にとってのコンドームもラブホテルも何もない世界を歩き続けるしかなくなったら」
  たとえば、街を歩くとします。
「私、危なかったと思う」
あのとき、夏月に読んでもらった文章が、佳道の頭の中で再生される。
「こうして誰かと繋がれてなかったら、どうなってたんだろうって思う」

 

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