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瀬尾まいこ『そして、バトンは渡された』を読む 2

 この小説のすばらしさがわかる場面を引用する。ネタバレになるので注意してください。

第2章
 森宮さんは本箱を、私と早瀬君の前に置いた。
「300万?」
多すぎる金額に、私と早瀬君は、
「大きい式挙げるわけじゃないのに使えないよ」
「そうです。こんな大金いただけないです」
とそろって困惑した.
「どうせ物入りだからもらっておけばいいよ。今さら泉ヶ原さんに返せないだろう」
「でも……」
「これは受け取ったほうがいい。そのほうが泉ヶ原さんも喜ぶだろうから」
あまりに高額で、うれしいと感じるよりも戸惑ってしまう。それでも、このお金を用意してくれた泉ヶ原さんを思うと、ありがたい。きっと私たちのこれからをいろいろ案じてくれたにちがいない。
「泉ヶ原さんはこんなに大金を出して、二人を応援してる。水戸さんは連絡を取らなくたって、優子ちゃんの幸せを願ってるのは明るかだ。梨花は大喜びだろう,。それなのに、俺が反対するとかおかしいもんな」
 森宮さんは静かにそう言った。
 計画どおりだ。他の親に賛成してもらえば、森宮さん一人の反対くらい押し切れる。そう思っていた。それが複数の親がいる利点だと。だけど、全然違う。森宮さんが心か%「いいよ」と言ってくれなければ、意味はない。他の誰がどれだけ賛成をしてくれても、進むことはできない。
 どうしてかはわからないけれど、そうなのだ。私がそう言おうとすると、
「お父さんに認めてもらわないと結婚はできないです」
と早瀬君がきっぱりと言った。
「水戸さんや泉ヶ原さんに梨花さん。他の人にどれだけ祝福してもらつても、お父さんに賛成してもらわないとどうしようもないです」
「だから、風来坊にお父さんと呼ばれる筋合いはないと言ってるだろう」
 森宮さんが眉をひそめると、
「僕は自分の父のことは親父と呼んでいます。だから僕が、お父さんと呼ぶのは、その筋合いがるのは、お父さんだけです」
 早瀬君はそう言った。

       (中 略)

 森宮さんは文句を高いなから、お茶を流れてくれた。
 森宮さんが結婚を承諾してから、私たちは夕飯後にデザートを食べることが多くなった。 甘いものを食べると、いくらでも話が続いていつまでも時間が過ぎない気がする。早瀬君との暮らしは待ち遠しい。それでも、ここにもう少しいられたらと思わずにはいられなかった。
「私がいなくなってもちゃんとごはん食べてね」
「わかってる。っていうか、俺、もともと一人暮らしで、 一人でごはん食べてたんだから」森宮さんはそう言うと、シュークリームを口に入れた。
「そっか。そうだよね」
 私も同じようにシュークリームをほおばる。優しい甘さのカスタードクリームからバニラの香りが口に広がる。
「明日から、飲み会にも行けるし、遊びまわれるな」
「私がいたってしてくれてよかったのに」
 森宮さんはいつでも早く帰ってきて、休みの日も出かけることはめったになかった。もともと一人が好きなのもあるだろうけど、やっぱりどこかで気遣ってくれていたはずだ。
「子どもがいるとそうはいかないからなあ」
 森宮さんはいつもの偉そうな口ぶりで言った。
「子どもって、森宮さんと暮らし始めた時、私すでに十五歳だったけどね」
「優子ちゃんわかってないなあ。高校生の子育てほどたいへんなものはないんだよ」
「よく言うよ。でも、手はかからないとしても、高校生の私を引き取るの、ちょっとは抵抗あったでしょう?嫌なことだってゼロではないよね。私が森宮さんの立場だつたら、絶対に勘弁してほしいもん」
 今までも何度か同じようなことを聞いたことがある。そのたびに、森宮さんは「全然」と笑っていた。だけど、突然娘ができたうえに、その母親はすぐに家を出たのだ。 一切の迷いなく、そんな状態を受け入れられたのだろうか。結婚前夜なる、本音が聞けるかもしれない。私は森宮さんの顔をじつと見つめた。
「本当にちっとも嫌じゃなかったんだよな」
 森宮さんはそう言うと、「次はそうだな、和菓子にしようっと」とおはぎにフオークを刺した。
「それって変わってるよね」
「そう?」
「そうだよ。血もつながっていない子どもの面倒を見なくちゃいけないなんて、負担が増えるだけでいいことないのに」
私も森宮さんの勢いに負けないようおはぎを口に入れた。今なら、「実は困ってたんだよね」言われたって、心のどこも痛くはならない。それくらい私たちの間には、消えない時間が積み上げられている。
「俺さ、子どものころから必死で勉強して東大に入って、一流企業の就職も決まって、なんかそこでゴールしちゃった感じでさ。そこから先、目指すものも何もなくなって、自分も時間も持て余してたんだよな」
 森宮さんは口の周りについたきなこをはらいながらそう言った。
「出世するとか結婚するとか。まだまだすることありそうなのに」
「まあな。仕事も嫌いじゃないし結婚もいいかもしれない.でも、それは自分を削ってまでやることには思えなくててそんな時、梨化に会って、娘を一緒に育ててほしい。娘の人生を作ってほしいって言われたんだ」
「梨花さん、強引だもんね」
「ああ。だけど、そんな大ごとを頼まれることに、気持ちが奮い立った。やるなきゃいけないことが、やるべきことができたって」
「えらいこと引き受けさせられたね」
 梨花さんは、任されるとやりきらずにはいられない森宮さんの性分を見抜いていたんだ。私は、梨花さんに説得されていたであろう森宮さんの姿を思い浮かべて笑った。
「何度も言うけど、俺、本当にラッキーだったよ。優子ちゃんがやってきて、自分じゃない誰かのために毎日を費やすのって、こんなに意味をもたらしてくれるものなんだって知った」
「そうなんだ」
「守るべきものができて強くなるとか、自分より大事なものがあるとか、歯の浮くようなセリフ、歌や映画や小説にあふれてるだろう。そういうの、どれもおおげさだって思ってたし、いくら恋愛をしたって、全然ピンとこなかった。だけど、優子ちゃんが来てわかったよ。自分より大事なものがあるのは幸せだし、自分のためにはできないことも子どものためならできる」
 森宮さんはきっぱりと穏やかに言った。まだ私にはその気持ちはわからない。早瀬君と共に進む時間が増えたら、わかる日が来るのだろうか。
「自分のために生きるって難しいよな。何をしたら自分が満たされるかさえわからないんだから。金や勉強や仕事や恋や、どれも正解のようで、どれもどこか違う。でもさ、優子ちゃんが笑顔を見せてくれるだけで、こうやって育っていく姿を見るだけで、十分だって思える。これが俺の手にしたかったものなんだって。あの時同窓会に行ってよかった。梨花と会わなかったら、俺今ごろ路頭に迷ってたな」
「まさか。それこそおおげさだよ」
「まあ、俺、頭はいいから路頭には迷わないけど、でも、人生はきっともっとつまらなかった。よかった。優子ちゃんがやってきてくれて」
 私もだ。森宮さんがやってきてくれて、ラッキーだった。どの親もいい人だったし、私を大事にしてくれた。けれど、また家族が変わるかもしれないという不安がぬぐえたことは一度もなかった。心が落ち着かなくなるのを避けるため、家族というものに線を引いていた。冷めた静かな気持ちでいないと、寂しさや悲しさややるせなさでおかしくなると思っていた。だけど、森宮さんと過ごしているうちに、そんなことなど忘れていた。ここでの生活が続いていくんだと、いつしかか当たり前に思っていた。血のつながりも、共にいた時間の長さも関係ない。家族がどれだけ必要なものなのかを、家族がどれだけ私を支えてくれるものなのかを、私はこの家で知った。

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