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アクアラインのような生活の中で。

ある秋晴れの、昨日より少し冷え込んだその朝に、僕はいつもはドリップするのに、珍しくコールドブリューのインスタントコーヒーを淹れて、飲んでいた。
貰い物の、開けたばかりで、酸化していない、それ、は、目分量で多めに入れたのもあって、特に悪い味はしなかった。

今日は、中原中也の命日だ、と、新聞を見て思い出す。
彼の言葉の多くを昔の僕は意味も分からず暗記していて、今ではその多くを忘れてしまった。
血肉となった、それ、に目を向けることは、なかなか難しい。
本棚にある詩集、昔は全集で読んでいたけれど引っ越しの時に捨ててしまったので岩波文庫のもの、は、開かれず、ただ、側にいてくれる。
それだけで、いい、こともある。

運転免許でも持っていたなら、今日の僕は何処かに出かけていただろう。

くるりの「ハイウェイ」という曲が歌うには、僕が旅に出る理由は百個くらいある、らしい。
あるいは、「ばらの花」が歌うには、安心な僕らは旅に出ようぜ、らしい。
それは、今の僕や僕たちもそんな気分なのか、分からなくなる。
昔の彼らはそうだったかもしれないけれど。

どこか遠くに行こうよ、と、疲れている皆んなは口々に言う。
14歳の頃から自由になりたかっただけなんだ、と僕は言う。
カフカは、自由ではない、右でも左でもない、ただ出口だけが欲しい、と言う。

本当だよ、カフカ。この現実の閉塞感に、右とか左とかじゃない、出口が欲しいよ、そこが入り口だったとしてもね。
今の生活は、笑う例えだけど、あの木更津と川崎をつなぐ、アクアラインみたいだものね。
海ほたる、なんて、怖いだけだけど。



最近、僕は、なんとなく、酒を飲むことがある。

なんとなく、飲むのは、僕は出来るだけ、悲しい時や腹を立てた時あるいは嬉しい時に酒を飲まないように、冷静に現実を見つめるようにするためだから、なんとなく、になるわけなんだけど、チャットモンチーが歌ってたみたいに、もう空は飛べないのかな、と思う。

でも、多分、酒を飲むようになったら空を飛べなくなるんじゃなくて、大人になることは空を飛べなくなること、あるいは、飛んではいられなくなること、でもあって、地上に止まり続けるように、酒を飲むしかない時もあるんじゃないかな、と少し酩酊しながら思う。

カミュを読んだ十代の頃から、いかに超越思想に逃避せずに現実を受け止め続けるか、蔓延る不条理に抵抗し続けるか、大事にしてきたけれど、21歳の僕の最近は、カミュみたいに立派でも賢くも強くもない、強風に飛ばされるビニール袋のようで、風見鶏のように向きも変わってしまいそうで、だから、そうだな、また北を向けるように、少しは、ぼんやりしたい。

カミュには怒られそうだけど、僕はカミュではないから。

そういえば昔の日記に、僕はフレディ・マーキュリーじゃない、と書いてあって笑ったな。
そうだった、何度もトム・ヨークは僕のことを歌ってくれるのに僕はトム・ヨークじゃない、と思ったこともあった。

生活は無風にはならない。
まぁ、追い風だったらずっと北を向けるのかもしれないけれど。
少なくとも、風、は、向こう側から吹いている、ように思う。

たとえ僕の毎日の、僕の目に映るこの社会に、僕に言葉をくれたカフカやカミュや中也がいないように見えたって、世界に文学がないように見えたとしても、文学や言葉、それだけは諦められないし、文学があるところにしか文学がない、なんて、言いたくない。

だから、皆んなの、遠くに行きたい話を、僕なりに真剣に聞く。
皆んなの話を本当に理解してあげられなくても、構造を知ったかぶりして分かったようなことを無責任に口走るだけでも、側で聞かせてくれないだろうか。
僕らが生活の責務や金欠でどうしようもなく海を見れないとしても。

僕らが、過去のようにいられなくなって、未来にどうあれるのか分からなくて、今がどうしようもなくて、それが自分のせいに思えてしまっても、そして、若者なりに、若者だからこそ、自分や周囲に責任を取ろうとすることは、たとえそれが学校の掃除当番のように押し付けられたように感じる時があっても、間違いではないはずだ、と思うし、少なくともそう信じたい。


僕が今日、車に乗って何処かに行けないのは、薬を飲んでいる間は免許を取ることは難しいからで、あるいは、同じように体調が悪いからなんだけど、それでも、向こう側に行きたいと思うことを、たとえ行けなくても、超越思想だなんて、くだらない慰めだなんて、思わない。

僕が誰かと分かり合いたい、と思い続けているのも、逃避、超越思想、あるいは慰め、かもしれないけれど、そんな諦めも言いたくない。
信じるところから始まるはずだから。

だから何度だって、動けないベッドの上から這いつくばるように言葉を探すよ、向こう側に行くように誰かに言葉が届くのが超越思想だったとしても、もう一言足らないせいで誰かに誤解されたり、一言多いせいで誰かが離れていったり、飲み会の席の、グラスの底を見つめる、出まかせの冗談は言いたくない、もうそんなのは御免だ。

言葉が浮かばなくても、それが絵葉書でしかなくても、宛名がもう行き着く先のない君のままでも、届けようとし続ける。

地上に止まり続ける僕のやるべきことは、こんな地上の沈黙の中で諦めないで言葉を探すことだ。

それが免許を持たない僕なりの逃避行に終わってしまったとしても。



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