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2023.12.20 うまトマチキン

特に問題のない午前中に、僕は鬱屈した全休だらけの毎日から抜け出そうと、前からイメージだけあった小説を書き始めたのだが、やはりイメージしかなかったものだから最初の書き出しから漠然とした文章だけが上滑りしているように感じた。

結局二時間ほどパソコンの画面と睨めっこしていて、その間中、猫が僕の部屋をウロチョロしていて、僕の部屋着で爪研ぎをしたり窓枠に乗っては降りたりしていた。

結局猫に、うまく行かないよ、どう思う?とか喋りかけてしまって、猫も寂しいから話しかけられたら喉を鳴らしているしで、あまり集中できないし、集中したところで今日は良いものが書けそうになかったので、やるとしても午後にしようと思い、全部消すか保存するか迷って、上手くいかない状態を見つめ直すために適当な仮タイトルをつけて保存しておいた。

鬱屈から抜け出そうと小説を書き始めたけれど、結局鬱屈の中に閉じこもる羽目になり、確かに鬱屈とか言ってる場合ではないやらなければならないことも何個かはあるのだが、それもやる気になれず、やりかけのゲームを手に取った。

先週にポケモンのダウンロードコンテンツの後編が出たので、一応ストーリーはクリアしているのだが、ポケモンの全世代ソフトをやり込んでいる身の習慣として、ポケモン図鑑を揃える、つまり全種類のポケモンを捕獲するということをやらなければならなかった。大体800種類ほど。

いや特にそれは義務感のそれではないし、最近のポケモンのゲームの出来には文句しかないのだが、やはりポケモンには愛着があり、そして基本的なゲームシステムは子供の頃から慣れ親しんだものなので、手に取ってやりやすいというだけだった。つまり暇つぶしでしかない。

僕は趣味と言ったらゲームぐらいしかないのだが、最近は金も時間も気力もないので、あまりやっていない。
隙間時間にやれるようなゲームを探せばいいのだが、最近のゲームはハードの向上でやれることが増えたせいでクリアまで百時間というのがザラであり、なかなかやる気も起きない。

兎にも角にも一時間ほど適当に音楽を聴きながらゲームをして、そろそろ飯でも食いに行くかと思った。

外に出る時にハイライトが切れていてハイライトメンソールしかないことに気づいた。
この前実習がクランクアップして打ち上げがあったのだが、そこが全席喫煙だったので買ったものだった。
結局金曜日で席が二時間制だったのであまり吸わず、それは丸々残ってしまった。
久しぶりにメンソールの煙草を吸っていると、最近の日々には何も問題がないな、と思った。
あれだけ嫌気の差していた実習も、終わってみれば、毎週皆んなで顔を合わせて撮影をしなくなるのかと寂しくもなるのだった。
打ち上げは例の如く特に上手く喋れたわけでもなく、黙ったり笑ったりしていた。

問題がない、それも現在の問題に目を背けているだけなのかもしれないと思いながら、いやしかし目を背けていることに無自覚なほどの問題ならば放っておいて構わないし、問題があると思おうとするのは悪癖だなとも思ったので、煙草を吸い切って、今日までだと言う松屋のうまトマチキンを食べに行くことにした。

松屋に行くまでに煙草屋に寄ろうと思ったのだが、水曜は夕方まで開いていないので、ハイライトを買えなかった。

少し遠回りしようと、近所の寺の墓地を抜けると、風が吹いて形のいい整えられた松の木が揺れて、どこかからの枯葉が舞っている。
僕は墓地の水道脇にあるベンチに座って、暫くぼんやりと松の木を見る。

僕は去ったいつかの秋の深夜の帰り道に、また同じこの松の木を見て、形が整えられたことに腹が立って、蹴り飛ばそうとして辞めたことを思い出した。

あの苛立ちも衝動も失意も全て過ぎ去ってしまって残ったのは鬱屈だけか、と思ったのだが、最近の僕は感傷に浸るわけでもなく、ただ漠然とした平坦な日常だけがあった。

冬は寂しいと誰かが言うのを何度かこれまでの耳にした気もするが、今まで僕は寂しいだなんて思ったことは一度もなかった。

若者の老化現象により若者は孤独の安定を求めている、という概要のネット記事を何回か見かけたことがあるが、思えば思春期の時からそうだったような気もする。

寂しいと思うほどに誰かが僕の心の内に入り込んで長く滞在したこともなかったような気がするし、寂しいと呟く誰かの心の内に入り込んだ記憶もない。

僕はやはり自分のことしか考えられていないのかもしれない、と松の木を見ながら思った。

誰かに会いたいと最近よく思う。誰かの声が聞きたい、くだらない話がしたい。それも鬱屈した行き場のない退屈な日々の束の間の出口が欲しいというだけなのかもしれない。

そして今までもそれらは叶えられずにやはり鬱屈だけが残って、やがて衝動は薄れていき、こんな平日に僕はゲームをして松の木をひたすら眺めている。

あの去った秋の日、確かまだ暑くてシャツが汗で湿っていた記憶がある、その日僕は松の木がやたら整っているのを見て物凄く腹が立ったのだけれど、そんな気持ちも無くなってしまった。

あまりに孤絶しているのかもしれない、そして怠惰なのかもしれない、感傷も社会集団や行動の中で起きるものだから。
自己憐憫すらなくなったこの冬に、また誰かと話して、あの去った夏のような、ビートの刻まれた生活を送りたい、とぼんやり思った。
それが、きみ、であっても良かった。

ベンチから立ち上がって墓地を抜け、少し歩いて松屋に入る。
少し迷って高い金を払い、チーズ入りにした。
番号で呼ばれてブースで食べると、やはり都会の人間だからか安心するし、美味い。
ニンニクと醤油のキレ、トマトソース、柔らかいチキン、それらがチーズでまとまっている。

食べ終えて外に出た時、今日までだから食べられてよかったと思うと同時に、一生一人で松屋のメニューを楽しんでいるかもしれない、と思った。

昨日夏によく会った友人の声を久しぶりに聞いたからかもしれない、その友人とよく行った中華料理なんかを、誰かと笑いながら食べたいと思った。
中華は暖かくて量が多くて安いのが美徳だから、人と食う方が美味い。

今日でうまトマチキンが終わってしまったのならば、これからは人と食事を出来るだけ共にしよう、忘年会の予定もあることだし、と考え、金はなかったけれど、髪を切りにいくことにした。

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