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苦悶の貴女へ、ドクダミを摘みながら。

涙がこぼれて、ソファーにちょんぼりと座ったズボンを握りしめても止まりそうにない。外に出てドクダミを摘むことにした。

どうしてそんなにポジティブなの?
どうしてそんなに行動力があるの?
どうしてそんなに楽しそうなの?

と聞かれることがしばしばある。たしかに、相対的に見るとそう見えることがあるのかもしれない。そしてたしかに、そういう側面が真実だとも思う。
でも、私はとても弱い。

梅雨の雨が降りしきるより先に、私のすべてが今、霏霏と苦悶している。

(池のほとりのドクダミ)

何年後か、何十年後か、何百年後かの私へ。
貴女は今まで、弱さについて、つらさについて書くことを、大変苦手としてきているらしい。SNSやブログで書くことは「大丈夫?」という言葉がほしいみたいでできない。将来見返して元気が出ればとメモしている「悩み」タグの日記は、コトの記述と、露わにした少し遠慮がちな感情の記述だけで、結局悩んだときに見返すことをしないものになっている。結局、これといったものを残してこなかった。

今のこの霏霏とした苦悶は、大変に結構なものだ。
夜更けに眠りに落ちるまで悶々懇々として、起きてもまだそんな調子だと、たちまち鬱々とまでしてくる。
例の、左胸がキュウーッと縮まる思いがする。苦しい。泣きたくないのに、涙がこぼれてしまう。
とても苦しく、とても情けない。自分が情けなくてたまらない。
この状況から立ち直った後はもうこんな思いはしたくないけれど、私は弱いから、何年後かの貴女がこの弱さを克服していなければ、またこんなにも苦しむかもしれない。人間というもの、なかなか変わることはできないでしょう。
だから、少しでも貴女が顔晴れるように、見返せるような代物を書いてみようと思う。きっとはじめての、苦悶についての文章だ。書けるかな。

まっすぐに前を向いた文章、向日葵のように顔をあげて世界を抱擁する文章というのは、通常、いつでも書ける。でも、頼りなく閉じてしまいそうな眼差しを懸命に保ちながらでしか紡げない優しさがある。なんとか生きていようとする、なんとかもがこうとする。なんとか、今日を生きようとする。きっといつだってそうやって毎日を過ごしているのだけれど、それをかるがるとやってのけられないときだから、まっすぐに向き合うことが苦しいときだから、きっと。貴女に届け。

(梅しごと)

貴女はこういうとき、とても弱い。こういうとき、というのは、貴女の活力の9割を担っている支柱を失ったときだ。

「明日は必ず美しい。だってそうなるような今日を私が生きるから」

十八歳、はじめて分岐路といえる道を選択をしたときから、これが私の9割を支えてきた。読んでいる今はどうだろう。
私は、自分に対する自信がない。ない。究極にない。こんなこと、他人に言ってもそんなことないでしょうと言われるだけで明かす意義がないから普段口にしないけれど、ない。自分のことだから、自信を持って自信がないと言える。そうでしょう?──読んでいる今は、どうだろう。

性質も容姿も何もかも。学歴(そもそもそれ自体どうということないものだと思っているのだが)とか過去の業績を指す人がいるけれど、それは「自信」とは結びつきようもない。「結果的に」手にできたものは、たしかに大切な「時間」であったけれど、それは決してレッテルのような「モノ」ではない。もし何かレッテルが貼られることがあっても、私が今を生きる上で何にもならない。
未来を語って今を生き進める。「今」を生きている、自信のない私には、それが道を歩く方法だ。だから、今日の生き方がわからなくなったとき、つまり向かいたい未来がわからなくなったとき、どうやって歩けば良いかわからなくて、自分の存在が世界にとって小さな錆びであるように感じる。そこに在ることで良い作用は何もなく、かといって邪魔なわけでもないけれど、ない方がまあいい、というような。

(淡路島のたまねぎ)

貴女は幼い頃から草取りが好きだよね。今ね、私はドクダミを抜いている。
ドクダミの匂いはきついと言う人が多いけれど、貴女はこれが好きで、小学校の通学路やお庭のドクダミをよく摘んでくんくん匂いを嗅いでいたね。今もまず、目を閉じて香りを吸い込んでしまった。目まぐるしく変わっていくものの中で、変わらないものだって案外多いんだよね。

リュウノヒゲ。ぴゅうーっと細くピンとしたこの青草の名前が思い出せず、尋ねてしまった。家を出て六度目の春。ずいぶんと、野草から遠ざかって生きてきたんだなあ。

たしかに私はポジティブな方だし、行動力もどっちかといえば無い方ではないかもしれない。でもだとしたら、それを支えているものは2つしかなくて。

9割の支柱は「明日は美しい。だってそうなるような今日を、私が生きるから」という「未来への希望と自信」みたいなもの。
残りの1割は、家族とか親友とか、こんなホコリちゃん(※)の私を無償で愛してくれる人の存在。
この2つが強烈だから、強烈に支えられていて。

だから「人生どう生きていったらいいんだろう」という状況に置かれたとき、私には支柱の1割しか残らない。

小さな錆びであっても、無償で愛してくれる人が現れた瞬間に、その小さな錆は世界に在りつづける価値を獲得する。

(※)ホコリちゃん:「くず」なんて呼ぶのは自分のいのちがかわいそうなので、ホコリちゃんと言うことにしている。夜景の灯がちらちらと揺れ瞬くのはホコリちゃんが空気中に浮いているおかげだし、青空に上れば真っ白な雲にだってなれる。目指せ白い雲、ということで、自分を甘やかすための「ホコリちゃん」だ。余談ではあるがこのアカウント名は最初ホコリちゃんで、でも言葉は思考になるのでネガティブな名前はやめた。

ドクダミは、抜いても抜いてもビュンビュン生えてくる。そのままにしておくと、背が高く高くなる。
日本人は、死生観として儚さや潔さに美を見出してきた。「咲き誇る花は散るからこそに美しい」の歌の「花」は、桜のことを言っているんだろうか。だとしたら、ドクダミの美しさは、逞しく生き誇りつづけるところにある。邪魔だと抜かれても、気づかれず踏まれても、静かに強く生き誇りつづける逞しさに。

野草と違って、人間は感情を持ってしまった。
いつもの私なら「人間は感情を与えてもらった。感受性を研ぎ澄まして、世界のいとおしい声を聴いて生きることができて幸せ」なんて言うけれど、今は「人間は感情を持ってしまった」という気持ちが混ざっている。そういうことだってある。こんな気持ちからは一刻も早く、できれば永遠にオサラバしたい。

「努力を続けた学生だって、結果にならなきゃ家族はきっと悲しむ。
 世渡り上手がうまくはいっても、そんなの尊敬できない人生。
 矛盾ばっかな感情を、いったいいつまで抱えて生きてゆくのでしょう?」

YUI の How Crazy。何度も口ずさんできた。
感情なんて、欲望なんて、矛盾ばかりだ。

「夢にいつも純情じゃいられない。How Crazy」と歌うとき、私は「いつも純情でいてやる」と叫んできた。「How Crazy?上等だ」って。

母は、父は、決して私の「結果」を望んではいない。私の「幸せ」を願ってくれている。だからこそ、私の強い強い支柱となって、9割の柱が崩れ落ちても、こうして生きていられる。
でも。今、私は、明日から人生をどう生きていったらいいのか、わからない気持ちでいる。持ち前の楽天的な馬鹿力を発揮しても、幸せに生きる自信が削がれそうな思いだ。そんなとき、たくさんの愛情をもらった屋根の下を出てきた、それを応援してもらってきた、その父母の愛情に「お母さんごめんね。お父さんごめんね」と思う。そして、無性に泣きたくなる。
こう思える私は、幸せ者だね。
期待に応えるなどといった、まるで他人の人生を生きるようなことは、しようと思えないし、できない。もっとも、そういう類いのものは消えてなくなる。
でも、無償の愛は、いつまでも消えない。たとえ、彼女が、彼が、この世界で息をしなくなっても、愛の記憶、愛の柱は、永遠に消えない。
家族、親友、こころの故郷神戸のパパとママたち、恋人。愛してくれて、有難う。「ありがとう」ではなく「有難う」という気持ちだ。私にはまだ自分でつくった家族はないのだけれど、家族が増えることって、自分の支柱が増えるということなのだろう。

(山椒の若芽)

ダンゴムシの白い死骸、はらんはらん、と舞う白い蝶々。
ドクダミを摘んでいる最中にちょっとドキリとしたものの、後退りの俊足を発揮しなかった自分にびっくりする。

田舎育ちなのに虫が苦手なことは昔から変わらないけど、でも、ちょっと強くなった。じつは夜実家のトイレに行くのもこわくて、家を出るときに不安だったのは、マンションの階段や家の中に虫が出ること、そして夜一人の部屋で動けなくならないかということだった。どちらも、エピソードはあるけれど、案外うまくやっている。そして、どんどん強くなっているよ。こんなちょっとしたことだけど、二十四歳の貴女は、私は、いつの間にかちょっと強くなった。でもね、やっぱり弱いから、書きながら泣いてるんだ。

ドクダミを抜いていたら、ダンゴムシがたくさん出てきた。巣でもあるのかなあ。そういえば、野草を引っこ抜いたときに遭遇するダンゴムシの集団を見たのも、久しぶりだ。

「虫ダメなのに、ダンゴムシは大丈夫なの?」と聞かれ「私、ミミズとダンゴムシは大丈夫なんです」と答えて、はっとした。ちょっと不思議な気持ちになる。そういえば、さっき白い蝶々も飛んでいたんだった。

とりわけ女の子のことを、バタフライ属・ダンゴムシ属、と比喩で呼ぶ親友を持っている。その彼女は、私のことだけ「ミミズくん」と呼ぶ。
「きみは善良なことしかしないからミミズに似ている。ミミズはよいことしかしないので似ている」
のだそうだ。真偽は置いておいて、有難い命名だ。彼女はダンゴムシ属だから、私が大丈夫な虫はまるで彼女と私のようで、なんだか狐につままれたような気持ちになる。どうして今まで気づかなかったのだろう。
試しに彼女とのLINEを「ミミズ」で検索していたら、ふふふっと笑えるやり取りがたくさん出てきた。そして、ふふふっと笑いながら、なんだか泣きたい気持ちになっている。温かい涙だ。

「君は輝ける黄金のみみず。いずれ空も飛べる」
『みみずは地上に出たらひからびるんやで。。。』
だとか
「食べられないように潜っていなさい。つちのなかに。私の大切なみみず」
などという、ふつふつと柔らかな元気が出るような、貴女をこの先一生温めてくれる言葉をたくさん見つけたのだけれど、その中から、或るやりとりを取り出してみることにしよう。
彼女のことをダンゴムシ、私のことをミミズと記す。ミミズくんは、きっといろんなところにいる。
彼女の言葉はやさしく味わい深いので、この私から私への手紙を根気よく読んでくれている第三者がいてくださったら、そしてそのかたがもし何かで足踏みをしているような気持ちになって悩んでいたら、ちいさくて大きな光となるやもしれない。
もちろん、未来の私、つまり貴女にとってもね。

ダンゴムシ:「人の良いミミズくん。きみ、いま色々悩んでるみたいだけど、前から私、きみには地に足をつけて、夢に向かって一歩一歩歩いていく力があるなって思ってる。たしかに、きみがやろうとすることって、どれも難しいけど、だいたいどれも成功してたり、いい結果を導けてるから」

ミミズ:『ミミズくん、地に足ついてないよ…わたしにはきみのほうが地に足がついているように見えるけどなぁ。わたしは走りながら色んなところを寄り道したり違う道にそれたりして、たまに長いことぼーっと体操座りしてるミミズだよ。だいたいどれもゴールに行き着いてない。でも、ありがとう。ミミズの懐にしまっておくね』

ダンゴムシ:「そりゃ、私、絶対にできるってことしかやらないもん。そりゃあできるよ。けどきみは、ぽけっとしてるようでいて、一見不可能そうな夢を引き寄せる力があるから、きっと大丈夫。きみのいいとこって、リスクを恐れないことと、いい意味で楽観的なとこやと思うよ。それって、見方によっちゃあ地に足がついてないっていえるけど、きみの場合、ぎりぎりできるってことしかやろうとしてないとおもう。ふつうに考えればむりそうなことも、きみには無意識下でできるってわかってるんじゃないかな」

ダンゴムシ:「少なくとも私は、ミミズくんのことを三年みてきて、きみの能力とかポテンシャル、集中力のすごさを知ってるから、あんまり心配してないよ」

ダンゴムシ:「仮に失敗したとしてもさ、死ぬわけじゃあないよ。また新しい道が開けるかもやし、きみだったらただ待ってるだけやなくて、道を自分で探しに行ける。だから大丈夫よ」

ダンゴムシ:「私、ミミズくんを見ながら、自分が思いつきもしないようなこときみがしてるのを目の当たりにしてるから、ほんとすごいって思ってる。とはいえ、自分ではよくわからんよなそういうのって。でも、いろんなことにチャレンジできるフットワークの軽さ、そうやってふらふらできることって、すごいよ!」

友よ、ありがとう。二年前、私が或る決断をきみに話したとき、きみのこの言葉に私がどれだけ、お日さまのような栄養をもらったことか。ひとりでも歩いてゆけたかもしれないけれど、きみがいてくれるから、私はこのとき、安心して歩みを進められたんだ。
今、私は、妥協ができない自分に苛立ち、かといって切望する先がわからなくなり、苦悶している。でもなんだか「まあミミズくんはそのままでいいよ。きみなら道が見つかるよ」って、ダンゴムシくんの声が聴こえてくるよ。今電話したら、きみはそう言ってくれるね。

私は彼女の堅実さを心から尊敬している。他にも尊敬できるところがたくさんあって、私の持っていないものだ。でも、持っていないことを良いと思ってくれている人もいるのかもしれない。自分では発見できないような美点が、他人から見たら案外あるのかもしれない。美点かどうかという真偽はさておき、そう思ってくれている大好きな人がいてくれることが、私の生きる力になっているんだよ。有難う。

そして、これはただに、未来の私へ。貴女のために、ここに残しておきたい宝物のような言葉がある。それは
「私、つい一昨日、きみの美点について、新たな発見をしたよ。私がミミズくんのことを最もすごいと思うのはどういうところだろうと、ぼんやり考えてて発見した」
という文章で始まっている。

ダンゴムシ:「私がきみのことをすごいなって思うのは、忙しかったりやることがたくさんあるときでも、料理をしたり、ジャムを作ったり、写真をとったり、花を摘んだり、そういう、ふとした人生の当たり前の一瞬を、ないがしろにせず楽しんでいるとこだと思うんだ。きみは、普通の学生に比べて遥かにおおきいことを考えるし高みを目指すから、ただでさえ大変な学科のうえにさらに大変だけど、それでもふとした一瞬を大切にする感受性の豊かさと、鋭さがすきだな」

ダンゴムシ:「それって、人生のバランス感覚だと思うのよ。頭がよくってきれっきれの人も、生活は自堕落を極めてたりするやん。そうじゃなくて、どんなときでも最低限譲れないとこは楽しんでるとこが、すごい」

ミミズ:『わぁ、そんなふうに思ってくれて、びっくりしてる。ありがとう。わたし、自分の中で最もホコリちゃんだと思うポイントのひとつなんだ、それ! ダンゴムシくんが言うところの 自堕落を極めた生活って、わたしそのものだと思うの。やりたいことをやって、興味が起きないとかやる気が起きないものはとことん避けて、欲に弱いし、理性が弱くて、つまり努力ができなくて、本当に本当に昔からどこまでもホコリちゃんやな〜と、最近もちょうど思ってた』

ダンゴムシ:「欲に弱い、やる気の起きないものは避ける、理性が弱い云々は、私も持ってるし、おそらく全ての人が共有する短所じゃないかなあ。きみの状況は、私やったら絶対に自分を送り込まないような過酷なものやと思う。そんな中でもし逃げたくなるときがあってもそれは当然やで。だけど、チャレンジしてみようって思うその心意気そのものがほんとにすごい。ありていに言う『やろうとするだけですごいよ~』とかいう、無責任な追従だとは思わないでね。私ほんとにそれがすごいと思う」

ダンゴムシ:「ミミズくんには人生のバランス感覚があるから、たとえこの決断がだめやったとしても、絶対に新たな面白い道を見つけるんやろなって思う。根拠はないけど、この人は絶対に自分の道を踏み外さない(自分の納得のいく人生を歩むという意味)って無条件に信じさせるところが、まずすごいしね。きみの話を聞いていると、考えもしなかった新たな可能性がぱあっと開けて、楽しい、面白い、やってみたい、っていう幸せな気分になる。少なくとも私は、きみのおかげで、やりたいことは諦めなくてもいいんだって思えたから。私は、ミミズくんのおかげで、自分の能力とか可能性とかを信じられるようになってきたし、あんまり捨てたもんじゃないなって思う。それは、ミミズくんがいつも心からの言葉をかけてくれたおかげだから。全然ホコリじゃないよ。きみの美点やで」

友よ、ありがとう。わたしのことを誰よりもそばで見てくれているきみが、私の一番だめだと思っているところを逆に美点だって言ってくれて、私は驚き、そしてとても嬉しかった。なんだか明日からがんばれそうだと思えた。
このとき私は、進むならばやらなければいけないことがたくさんあるのに「仮にこれをやって達成できたとしても進むのはその道でいいのかな?」と悩んで「達成できる自信すらないくせに、まず手を動かせよ」と思うほどやる気が起きなくて、モヤモヤモヤモヤしていたんだ。
そして今もね、このLINEから二年後の今も、きみのこの言葉に驚き、とても嬉しい気持ちだよ。

それから、これは霏霏とした苦悶の本質ではないのだけれど、今わたしは自分の弱さを再認識している。それは、他人を愛するあまり、誰にでも情が湧き、誰にでも祈ってしまうこと。それ自体はわるいことではないのだけれど、その祈りの中で自分まで悲しくなってしまうことだ。ダンゴムシくん、その中でまた、きみの言葉が陽だまりとなったよ。

ダンゴムシ:「ミミズくん以外にも本音で話せる友達はいるけど、でもきみ以外の他の子に、自分の懐のなかでずっとあたためてきた夢を話すのは、すごく勇気がいるの。冷笑されることも怖いし、いやそんなの無理だよって言われるのはもっと怖い。けどきみはいつも、君はできるよって背中をそっと押してきてくれたから、私も安心してそういう話ができるんだ。もちろん、本音で話せる子達はすごくいい子たちやし、仲はほんとにいいんやけど、こればっかりは人柄なんやなーって思う。同じ心からの言葉を言うのでも、正直な言葉が人を傷つけることもある。だけど、きみの言葉はいつも、この人を前に向かせてあげようっていう心遣いに溢れてるから、貴重なんだなって思った。だからきみの夢も、きっと叶えられるよ」
ダンゴムシ:「きみ、誰にでもいい顔してるわけじゃないよなあ。失礼しちゃうぜ。ミミズくんの共感性の強さはすごく素晴らしいところだよ。加えて、ミミズくんは根拠のないことは言わないからな、そこもすごくいいとこ。
私はいつも人と接するときに、見えない壁を持って接していて、ミミズくんはその内側に入っているから優しくするけども、それ以外の人にはあんまり親身になれないしなあ。ミミズくんだって程度の差はあれそうなんだろうけど、共感性の高さが違うよね。私はあんまり人にそういう意味で共感しないもん。」

ダンゴムシ:「誰にでもいい顔するって言った人は、どういう状況でどういう意図で言ったのか知らんけど、無責任やなあ。八方美人ならいやだけど、きみはちがう。むしろ素晴らしい美点やで。すべての人にとっていい人であることはできないよ。きみは、きみの価値をわかってくれる人に評価されればいいんじゃないかな」

友よ、ありがとう。このとき私は、あなたは誰にでもいい顔をするから不気味だ、というようなことを中学生以来、人生にして二度目に言われて、そういえば前にも言われたことある、なんて七年も前のことを思い出して、ちょっとしょげていた。だけど、大学に入ってからの私をずっと知ってくれていて、一番たくさん、深いところまで話したきみがそう感じてくれていて、これでよかったんだなぁって思えたんだ。
ちなみにね、ダンゴムシくんの「見えない壁の内側に入っている人への優しさ」を私はいつだって敬愛してきたんだよ。いとおしい友だち、ダンゴムシくん。有難う。

今、私は、自分の不器用さを思い知った。「のしあがる」「うまくやる」「自分のレッテルを利用する」「他人を利用する」こういった類のことができないのは承知で、変えようとも思わないけれど、でも、それができないことは「不器用」でもあって、さらに、相手が誰であっても愛して祈って涙を流すことは「弱さ」でもあるんだと、染み沁みと知った。
でもさ、きみが美点だと言ってくれるなら、私のこころはふわりと軽くなるよ。弱さであることは変わりないけど、強くてしなやかな美点となるように奏で、磨いてゆこうと思う。

「どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう」
小学校のときに習った歌の、サビの歌詞だ。

何年後か、何十年後か、何百年後かの私へ。貴女に、たんぽぽの花を贈るよ。

今は二〇一八年の六月。梅雨に入ったけれど、雨はまだそんなにかな。もうすぐ二十五歳になるんだけど、それからの人生、どんなものだった?
私、自信はないけどさ、でも「頑張る」じゃなくて、今からがんばって「顔晴る」からさ。そうしてきっと歩き出すから、貴女もまあ、顔晴れるんじゃないかな。貴女はきっと人に頼ることがとても苦手で、私もそうなんだけど。でも、今、勇気を出して頼ってみたの。そしたらたくさんのドクダミが咲いていて、それを摘んでいるうちに、貴女にこんなことが書きたくなったんだ。

私が今、たんぽぽの花を贈られたって、たちまち元気になんてならない。
だから、貴女もそうかもしれない。

でもやっぱり、たんぽぽの花を、あなたに贈るよ。

たんぽぽ

作詞:門倉 訣、作曲:堀越 浄

雪の下の 故郷の夜
冷たい風と土の中で 青い空を夢に見ながら 野原に咲いた花だから
どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう
どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう

ガラスの部屋のバラの花より
嵐の空を見つめ続ける あなたの胸の想いのように
心に咲いた花だから
どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう
どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう

高い工場の 壁の下で どれだけ春を待つのでしょう
数えた指を優しく開き 空き地に咲いた花だから
どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう
どんな花よりたんぽぽの花をあなたに贈りましょう


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