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泣くな。呵々大笑し強く走れ。

どうしようもなく泣きたくなるときがある。
堅実に、毎日堅実に働いて、こつこつと少しずつ少しずつお金を貯めて、それを大切にして、質素に暮らしてきた人たち。私たちの祖父や祖母、父や母の世代のほとんどは、そういう人たち。余剰資産なんてそんなに多くない。(そして私たちだって)

簡単に、銀行にお金を預けておくだけなんて愚かだ、と宣う若い人たちは、彼らの身になってお金の重さを量ったことがあるのか。1円が減るリスクに対するその1円の重みは、何を正義とするかっていう問題だ。だから人によって違う。余剰資産によって、健康によって、養う人の数によって、年齢によって、世代によって違う。

銀行にお金を10年預けていたら2倍になった時代を経験した。でも今はその利息が増えないどころか、円の価値はどうだ。世界は円の価値をどう見てる?世界は日本のメディアをどう見てる?世界は日本の政治をどう見てる?
だから、父や母のことを思うと私は泣けてくる。

若者が大事だという声をよく聞くけれど、若者「も」大事なのであって、父や母の世代だって、祖父や祖母の世代だって、みんな大切だ。少なくともその台詞は「若者が」言うべき台詞じゃない。世の中には、然るべき台詞の語り手というのがあって、これをあべこべにするから人々は不和になり不幸になるんだ。

たしかに、老害だらけの国だよ。くらくらするね。だけどそんなの一部の側面だ。せいぜい私たちが老人になったとき、同じように言われないよう脳に刻み込んでおこうじゃないか。

人間は減価償却材じゃない。人を償却するもののようにした語り草に、私は嫌悪を覚える。一部の文脈によってはアグリーだけれど。

精神年齢は成人を越えた頃にはもう重ねた歳に比例しなくなるし、肉体は重ねた歳に比例して衰えていくけれど、でも、歳を重ねた生き知恵の豊かさや、感慨の軽やかさ・豊かさは、やっぱり大概、ある一定の係数を保って年齢に比例する。これらを敬愛するし、敬意を示すべきだとも思う。何より、本当に愛くるしいんだ。抱きしめたくなるくらい愛おしい。
赤ん坊が皆同様に持つ真っさらな愛くるしさじゃなくて、たくさん詰め込んだ一人一人の愛おしさがある。

私が今やっていることは、すべて私がつくりたい明日のため。きっとたくさんの人がそうやって生きている。
その明日の連続の先に、私が生きる最後の日がある。愛する人が生きる最後の日がある。

その最後の日まで、美しい明日が来ると信じて生きたい。
そしてそれ以上に、愛する人にはそう信じて生きていてほしい。

そのために、今を生きている。

愛する人の美しい明日を、必ず守りたい。

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