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高校生探究プロジェクトをふり返って➁ vol.554

昨日の続きになります。

昨日はこの探究プロジェクトの時間という観点で考えていきました。

今日は、最も重要と言ってもいい目的の部分を考えていこうと思います。

誰がやりたい?

果たしてこのイベント、誰がやりたかったのでしょうか。

私自身がやりたかったというのは当然のことながら、それを運営する高校生たちの真意をくみ取り切れていなかったなというのも正直なところです。

目的の共有、想いの共有が浅はかな部分があったと認めざるを得ません。

もともとが修了証という、目に見えるエサで釣ってしまったのだからしょうがないと言えばしょうがないところ。

それでも、子どもたちの主体性や自主性を引き出すためのしくみつくりにはもう少し気を使ってもよかったと今だから思い返せます。

私自身がやりたいという、強い想い自体も子どもたちにはあまりうまく伝えきれていなかったのかもしれません。

気づいたときには、どこか自分本位の中のイベントに少しずつ舵を取られていたのかもしれません。

自分たちで作り上げたいという内発的動機付けか??

理想は、子どもたち自身にこんなイベントを作り上げたいという内発的動機が生まれること。

しかし、そのためにはどこかで刺激に触れ、憧れに触れ、知的好奇心が駆り立てられというプロセスが必要なはずです。

特に高校生になると小中学生に比べて、この部分をくすぐるのが非常に難しくなってきます。

初めましての体験や惰性を覚え、刺激(短絡的なものではなく、長期的に心情に影響する者)に触れあう機会がなくなってしまうからです。

ここを刺激するのが非常に難しいなと改めて感じさせられたイベントでした。

これは高校生の授業も同じなのだろうなと思うのですが、果たしてどんな工夫が必要だったのか。

中にはものすごい興味を示してくれる子もいたり、自主的にどんどんと先に進めてくれる子もいました。

たぶん、私自身が一番このプロジェクトを通して、イノベーター理論を考えて行動しなければならなかったのでしょう。

確かに強制力は必要、でもその出し加減を少々見誤ったというのが感覚としてあります。

出発地点から共有して

想いは先行していてもいいのですが、やはり創り出し、スタートはもっとゆっくりと、こうしようという目標の設定を一緒にやるべきだったなというのが反省点です。

どんなイベントを目指すのか、どんなイベントを提供するのか、作り上げるのか。

そもそもイベントをすべきかどうか、したいかどうか。

ある程度出来上がったり、どこに何をはめるかが分かり切っているジグソーパズルほどつまらないものはありません。

ジグソーパズルを作る上ではそのスペースを確保してあげるだけでよかったのかもしれません。

いや、そもそもそれすらもいらなかったのかも、、、。

なんにせよ、その部分が弱かったのか。

参加希望者を募っていたようで募っていなかったやり方を変え、本当に一からのスタートをともに歩んでいく覚悟が必要だったなと感じました。

そうなるとやはり、時間は2か月だと足らないなと(笑)💦。

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