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ダンスがnarrative変換をもたらす

身体の危機はmedical emergencyという枠組みだけでとらえてはもったいないような気がする。

私たちは自分自身を理解したり、自分の置かれている状況や環境(=世界)を理解するのにnarrativeを使っている。というか、それ以外に理解のしようがないのではないだろうか。いついつこういうことがあったから、今このようになっている。誰々がこうこうしたので、今私はこのようになっている。

身体の危機は、そんなnarrativeを中断し転換をもたらすのではないか。(例:大病で九死に一生を得て「人生観が変わった」など。)
おそらく様々な文化にある通過儀礼もそのように機能するのではないだろうか。苦痛を乗り越えた「から」大人として認める、などという定型のnarrativeで理解されるべきことではないように思う。日常のnarrativeに収まらないところがミソなのではないか。(例:マリドマ・P・ソメ『ぼくのイニシエーション体験』築地書館1999)

そして、ダンスもそのようなものなのではないだろうか。

踊ることが「自己表現」だったり、踊っている間は日常生活から離れられる、表現は癒しだ、などという見方だけではもったいない。あくまでもそれらは自己の世界の枠組み内に収まってしまっているから。

うん。そうだと思う。確信がある。
振り付けのあるダンスを、毎回なんの疑問も発見もなくなぞるのは、ダンスのnarrative変換機能を発揮しないからつまらないのだと思う。少なくとも私にとっては。

つまり脱皮中を晒したいんである。

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