「ルポ 死亡退院 〜精神医療・闇の実態〜」を観て
Eテレで2023年2月25日放送された「ETV特集 ルポ 死亡退院 〜精神医療・闇の実態〜」。放送後に、民放各局も後追い取材-放送するなど反響の大きかったこの番組。4月中旬に再放送されたことに伴い、NHKプラスでも一週間観れるようになったので、視聴期間ギリギリの4月14日の夜に観ました。
一視聴者である私がなにも言語化する必要はまったくありませんが、これからの自分の働き方や少しおおげさに言えば人生にも関係がありそうなので、備忘録的に、自分に向けてメモ代わりに、番組を観ての思いを書きたいと思います。
番組の概要は、
番組をご覧になりたい場合は、有料ですがNHKオンデマンドで。
観るのが辛い、、でも他人事ではないから
番組は冒頭から、かなりディープで重い感じから始まります。いくら視聴率が至上命題ではないNHKでも、私がディレクターだったら、こんなに番組冒頭から重く、きつく始められないなと思うほど、番組は重くきつく始まります。
おそらく、視聴された何人もの方が番組の冒頭5分で離脱されたのではないでしょうか。それぐらい、辛く衝撃的にこの番組は始まります。
東京八王子にある滝山病院は、糖尿病などによる人工透析が提供できる精神病院です。東京とは言え、人工透析ができる精神病院はそれほどあるわけではないらしく、知的障がい、精神疾患、認知症などで、かつ人工透析が必要な方にとって、貴重な医療施設のようです。
「ここね、人が人を殺すところなんです」
滝山病院に入院されている方へ、弁護士の方が訪れるところから番組は始まります。弁護士の方が記録用に面会の様子を映像に撮られていて、その面会映像の中で、
「ここね、人が人を殺すところなんです。早く出たい。折檻を受けている。この面接が終わって、病室に戻りたくない」と46歳の知的障がいの方は弁護士に訴えます。
そして、その方が病室で受けている暴言や虐待の映像が画面に映し出されます。「はい」と返事をしただけで「うるさい」と罵られ、頭を叩かれる。「痛い」と言うと、また「うるさい、黙れ」と言われ、頭を叩かれる。
信じられない光景が続きます。
私もここで観るのを止めようと思いました。仮にその裏に潜む精神医療の課題があったとしても、大変な虐待、言葉や身体的な暴力を受けている映像を、ましてやそれが一般的には弱者と言われいる、知的障がいや精神疾患がある方へ行われているのを視聴し続けるのは、辛かったからです。
私には、自閉症を持つ子どもが2人います。2人とも言葉を話すことはできませんし、トイレもおぼつきません。だからか、この滝山病院に入院している、入院させれられている方々が他人事とは思えませんでした。もしかしたら、それが理由で、人一倍、目を背けたかったかもしれませんし、がゆえに、たとえ観るのが辛くても、観つづけないわけにはいかなかったです。将来の我が子たちも、この凄惨な映像の中にいるかもしれないと想像してしまうから。
冒頭に登場した、弁護士と面会した46歳の知的障がいのある男性は、面会の1ヶ月半後、原因不明で亡くなります、、、
知的障がいだけではなかった。あなたも他人事ではないかも
知的障がいがある方が亡くなったあとも、凄惨な映像と音声は続きます。
タクシーの運転手をされていた方が、高齢により認知症となります。元々、糖尿病を患っていたこともあり、認知症の進行に伴い滝山病院に入院。折しも新型コロナの感染が拡大し、奥さんや息子さんはなかなか病院に面会できない状況が続きます。
背中に褥瘡(※)ができ、それがとんでもなくひどい状況でした。適切な看護がされていなかったことが原因のようです。褥瘡は、その重症度が軽度な順にⅠからⅣまで4つのステージに分類されています。私は医療関係者ではないので、詳しくは分かりませんが、番組内で見た、その方の褥瘡の度合いは、ⅢとかⅣかと思われるほどのかなりひどい様子でした。
その方が背中にある褥瘡の痛みを訴えます。看護師がその方の姿勢を変えようとします。
「痛い、痛い、、、」
とその方は訴えます。
「うるさい、黙れ!」
と、看護師は暴言を吐きながら、痛がるその方の姿勢を変える映像が流れます。
知的や精神に障がいがある方だけではないんです。
タクシーの運転手を長らくやっていて、高齢になり認知症になる。その方がたまたま糖尿病も患っていた。そんな珍しくもないケースでも、閉ざされた病院の中で、虐待を受け、適切な看護もなく、大変つらい最期を迎えうる。
「障がいの世界」の話ではないんです。誰しもが当事者になりうる話なんです。
行政の役割と責任を噛みしめる
私は市役所の職員です。そして、現在、福祉系の部署にいます。
滝山病院をめぐる、NHKの番組の中にも行政が出てきます。
一つは、生活保護のケースで。身寄りのいない生活保護受給者が高齢になり、認知症を患ったり、糖尿病にかかったりすると、その受給者の方を担当しているケースワーカーは、滝山病院を頼る。
滝山病院は、身寄りという何かあった時の引受人がいなくても受け入れてくれる。認知症や糖尿病、またはその両方を患っている方を受け入れる病院が少ない中、受け入れてくれる。
病院側は病院側で、生活保護受給者の医療費は、生活保護から支払われるので取りっぱぐれがない。
Win-Winの関係です。
もう一つは、医療機関に対する調査・監査・指導の立場としての行政です。
2022年5月、東京都に「虐待が行われている」との情報提供があり、都は病院側に聞き取り調査を実施し、その後も計3回の立ち入り調査などを行ったが、虐待行為を把握することはできなかったそうです。
そして、滝山病院の院長は、20年前に埼玉県にあった別の病院の院長をしていた際、過剰な治療と40人もの不審死、診療報酬の不正請求で、病院は事実上の廃院となり、院長は保険医の資格を取り消された方だったのです。なぜか保険医の資格は再交付され、滝山病院の院長となり、今回の同病院の看護師による虐待、暴行事件へとつながります。
この2つの行政の関わり。番組内では、行政側の人手不足、業務量の増大などの理由で手が回らないとの行政職員のコメントが取り上げられています。
じゃあ、どうする?俺に何ができる?
「2023年の日本で、こんな信じられない虐待が行われていたのか!とんでもない病院だ!」で済ますのは簡単かもしれません。
「あの病院が悪い。」
「虐待した看護師が悪い。」
「前にも同じような事件を起こしている院長が悪い。」で済ましがちかもしれません。
確かに、それはそのとおりで、とんでもなく非人道的な対応であり、それを黙認?容認した病院組織も悪いと思います。
でも、そこで話を終わるのではなく、再びこういうことが起きないように、何が悪かったのか、これから私たちに何ができるのか、ということにも目を向け、考え、共有していくことが何より大事だと思います。
まさに、「過ちて改めざる。 これを過ちという」です。
人は誰しもそうなってしまいうる?!仕組みから考える
とはいえ、医療介護の専門家でもなければ、集団が個人に及ぼす社会心理学などを勉強してきたわけでもない私に、この問題の解決の糸口が見つけることはできません。
ただ、今回虐待した看護師も個人として「悪」だったというだけでなく、環境がそれを助長したということはあるのかもしれないとは思います。
心理学における代表的な実験のいくつかを見てみます。
閉鎖的で、誰かに命令や指示された状況で、立場が異なれば、人は通常では信じられない行動や判断をしてしまうことを、これら有名な実験は示しています。
繰り返しになりますが、今回の暴行、虐待は決して許されるものではありませんし、それを行った看護師も厳正に処罰されるべきです。
ただ、人間は、もしかしたら誰しも、環境や権威や置かれた立場によって、間違った判断や行動をする可能性があるということは、私たちは共通認識として持つべきです。
その共通認識の上に立って、間違った判断や行動に流れていかないよう、環境、指示系統、立場、チェック機能、そしてオープンであることを、あらゆる現場で仕組みとして設える必要があると思います。
個々人の「がんばる」や、個々人の倫理観などに頼り切ってはいけないと思うんです。悪しき行いが発生したり、助長させたりしない仕組みと環境をきちんと設ける。個々人の「がんばる」は、その仕組みの上にあるべきものだと思うんです。
幸せに生きる≒福祉
今回の滝山病院をめぐる行政について、同じ行政マンとして、とかく言うことはありません。行政だけでなく、私たちの社会は、これまで、ものすごい時間とお金と人の思いを費やし、積み上げて、社会をよりよいものにしてきたんだと思います。
これまでの先人の皆さんには感謝しかありません。そして、私たちも生きている限り、元気な限り、そのバトンを受け取り、社会を少しでもよりよいものにしていくチャレンジをする。時機が来たら、そのバトンを次の人に渡す。
少しでもよりよい社会において、「福祉」とは”幸せ・幸福・豊かな”という意味を持ちます。
今この時代にバトンを持っている私たちが、人手が不足しているからとか、業務が多忙であるからとかの理由で、担当した生活保護受給者が入院している病院でどんな状態にあるのか確認するのが難しい。病院が適切なサービスを提供しているか、きちんと調査・監査・指導するのが難しい。
これは行政の怠慢を指摘しているのではありません。行政も含む、私たち社会は何を大事にし、どこに向かっているのかというもう少し尺度が大きめの話です。
きっと、人手も足りないだろうし、業務もいっぱいいっぱいなんだろうと思います。でも、本当に大事なことはなんなんだろう。人の命や暮らしや尊厳が奪われかねないことより、他に大事なことなんてあるんだろうか。
大きく深く自戒しか込めずに、市役所の職員として改めて自分の業務を見つめ直したいと思います。
フクシをヒラク
私は、2017年に「いわきの地域包括ケアigoku(いごく)」というプロジェクトを立ち上げ、2019年にはグッドデザイン賞で金賞までいただきました。
誰もが目を背けがちな「老い」や「死」をタブー視せずに、とっても大事な人生の最期について考えたり、話し合える社会を目指して、情報発信や棺桶にみんなで入っちゃおう的な「igokuフェス」というイベントを地域の皆さんと一緒に展開していた、役所らしからぬ、脱力系おもしろプロジェクトです。
大変かもしれないけど、とても大切な人生の最期。本人がなにをどう望むのか。それが分からないと家族も医療介護の関係者も本人の希望に沿った支援ができない。
でも、人生の最期を考えたり、大事な誰かに話すのは、タブーとか「縁起でもない」といって、ハードルが高い。
そのハードルを下げるべく、igokuは「まじめに不真面目」を掲げながら、老や死のタブーを乗り越える発信やアクションを展開してきました。
夏の夕暮れ、公園で飲食店のブースを設置し、音楽のライブがある。そこに棺桶や遺影のフォトフレームもある。地元の旨い酒やフードを口にしながら、音楽を楽しむ。老いも若きも、そんな非日常の空間で、ノリで棺桶に入ってしまう。
その日、その時だけでも、人生の最期をちょっと考えたり、誰かと話したりしてしまう。縁起でもないと思っていたのに、棺桶に入ってみたら、そうでもなかった。頭で考えていただけのことが、実際に入ることで、身体性や五感でとらえるようになった。
私は、igokuというプロジェクトを通して老いや死を、医療介護の関係者や当事者から少し「ヒライタ」ような感覚と経験を持ちました。
「igoku」について興味を持った、もっと知りたいと思った方は、こちらから、igokuの全てが書かれた、その名も『igoku本』がお求めできます。
『認知症解放宣言』
igokuのプロジェクトの中でこれまでに13本のフリーペーパーを発行してきた。いずれも私が素人編集長となり、地元のフリーランスのライターやデザイナーとチームを組み、福祉の外側から来た門外漢として、テーマを設定し、現場に飛び込み、話を聞き、酒を飲み、語らいつつ、福祉の外側の目線で考え、編み、制作・発行したものです。
フリーペーパーのvol.5で、認知症について特集しました。その特集の中で生まれたステートメントが『認知症解放宣言』です。
その経緯や考えなど詳しくお知りになりたい場合は、こちらの別記事を。
認知症を取り巻く問題を知らない私たちが取材しつつたどり着いた結論というか、私たちにできること、それが『認知症解放宣言』です。認知症の人を解放するのではなく、無意識に、「あ、あの人は認知症の人なんだ」と私たちが貼ってしまうレッテルやスティグマから私たち自身が解放されるんだという決意のようなものです。
猪狩僚という一人の人間なのに、「認知症の人」という「くくられて」しまう。認知症の人なんていう人はいないのに。私たち一人ひとりが無意識的にしてしまっているその「くくり」が認知症をお持ちの方と家族、関係者を生きにくくさせているのではないか。
そして、その「くくり」を意識してしないようにすることなら、医療介護の当事者ではない私でも、今日から、今から出来るんじゃないかというのが解放宣言の趣旨です。
滝山病院の話に戻ります。
知的障がいや認知症。もしご家族が周囲の目が気になり、疲れ、入院を望まれたんだとしたら。
番組の中で出てきた「必要悪」という言葉。
障がいや認知症、これらの領域において、もう再び「必要悪」という言葉やエクスキューズが生み出されない社会にしていくために。
自閉症の子どもを二人持つ親として、私にできることは、自分のペースで我が子と自分のことを「ヒライテ」いくことだと思っています。
「普通」とか「ちょっと人と違うよね」
絶対的な基準があるわけでもそんな言葉や感覚。そういった同調圧力や奇異の目を少しずつなくしていく。
そのチャレンジが、将来の第二・第三の滝山病院の事例を生み出さないことにつながっていくのかもしれない。
「生老病死」という言葉が象徴するように、医療介護フクシは全ての人がいつかは関わる領域。にもかかわらず、それらはまだまだ私たち社会全体の共有知とはなっていない感じがします。
今回のとてもショッキングな事例と番組を観ながら、自閉症を持つ我が子の未来が、今より、よりフラットでより暮らしやすい社会に少しでもなるよう、私にできる範囲で「フクシ」を「ヒラク」。そんなことを改めて強く思いました。
お読みいただきありがとうございました。
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今年は年間50本投稿を目指します。 13本目/50
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