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あいちトリエンナーレ、アーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」無効論

ここで論じるアート無効論は「弱者排除社会」と「官製芸術展」の文脈より始める。

弱者排除社会と排除「アート」

排除アートというものをご存じだろうか。都市の高架下や広いスペースにオブジェ、置石といったものを配置し、ホームレスの居住を防ぐものである。あるいはベンチを寝そべることのできないようデザインしたり、不自然な傾斜をつくるというものである。アートが弱者排除の偽装として利用されているという批判はあれど、いまだ社会に数多く存在する。

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写真:早川由美子氏 リンク参照

もちろんこんなものは断じてアートなどではない。本物の排除である。しかしアートではないから芸術界が責められる理由はない、という無罪論はここでは通用しない。もっと深刻なスケール、つまり体制・社会が弱者包摂を放棄し排除をおこない、それを従属的市民が、積極的あるいは消極的にせよ賛同をすることが問題なのだ。消極的賛同とはすなわち放置のことだ。市民は、芸術家は排除アートを賛同するのか、それとも放置しているのだろうか。

官製芸術展に表現の自由は存在しない

官による予算引き上げという切り札がある時点で、芸術家側に実践上の「表現の自由」などというものは当初から存在しない。資本主義的なパトロンと雇われ芸術家という関係を超克する、という双方の同意のみが「表現の自由」理念を復活させる。

排除アートをもって弱者排除社会を先導する体制と、従属的市民しかいないなか、官側が「表現の自由」「自由な作品の展示」などに同意するはずもない。話し合いの場を設けて声を上げる市民も結果、パトロンの意向に従わざるをえない。

これは大前提だ。弱者排除社会の官製芸術展に表現の自由などない。

「多賀宮」開設と表明

8月22日、「あいちトリエンナーレ2019」参加アーティスト・毒山凡太朗氏が、アーティスト・ラン・スペース「多賀宮 TAGA-GU」を開設することを発表した。以下に表明の全文を記す。

表明する。
私は「あいちトリエンナーレ2019 情の時代」に協力してくれた、円頓寺本町商店街の人々と対話する場所として、また、人々が本音で話し合える場所を作りたいと思い、ここ円頓寺本町商店街にある多賀宮にテンポラリーなアーティストランスペースを設置する。
ここではあいちトリエンナーレに関わる全ての人々と連携し、議論を重ねることを目指す。 アーティストは、議論する場を作るため、作品を展示する。 「あいちトリエンナーレ2019 『表現の不自由展・その後』の展示セクションの閉鎖について」と題された、あいちトリエンナーレ2019参加アーティストによる共同のアーティスト・ ステイトメントには、《『表現の不自由展・その後』の展示は継続されるべきであったと考えます。》という一文が書かれていた。観客や関係者の心身の安全を確保した上での展示継続を意図しているものの、「テロの脅威に屈せず、展示を継続すべきだった」と誤読される可能性を孕んでいた。その一文を取り消して欲しいと伝えたところ、その場合、多くの作家がこのステートメントに署名しない可能性があるため、できないという返答であった。その ため、私は署名をせず、ここに新たにステートメントを出す。
アーティストは作品を通して態度を示し、たくさんの人々と作品を共有し、議論していく必要がある。 テロの脅威に屈せず展示する作品とは何か。そのような状態でまともな議論は可能か。
芸術と社会、アーティストと芸術監督、国と県、展示に反対する者と賛同する者、二項対立の構造を越えて、作品を展示し、議論する場の必要を感じ、ここにアーティストランスペースを作る。形は違うが、展示を中止した多くのあいちトリエンナーレ参加作家たちと同じ理念の意思表明である。
ここで展示されていく作品は、このステートメントに賛同する人々の作品であり、毒山凡太朗と円頓寺本町商店街の皆さんによってキュレーション、選択された作品である。積極的な議論の場となるよう、名古屋市民をはじめ、国内外の様々な人々が自由に発言できる場所にしたいと思う。同時に、作品や議論企画の提案を広く募集する。
毒山凡太朗

ここで表明より抜粋する

《『表現の不自由展・その後』の展示は継続されるべきであったと考えます。》という一文が書かれていた。観客や関係者の心身の安全を確保した上での展示継続を意図しているものの、「テロの脅威に屈せず、展示を継続すべきだった」と誤読される可能性を孕んでいた。その一文を取り消して欲しいと伝えた
テロの脅威に屈せず展示する作品とは何か。そのような状態でまともな議論は可能か。

毒山氏の表明は「テロに屈しず展示を続けること」に疑問を呈しているようだが、そのような議論は内輪のみで可能だ。もとよりテロに対して議論など不可能だからテロは実行される。よって主催は警備面をいかにするかというプラグマティックな議論しかできないのである。それは芸術家に可能なのだろうか?専門家に任せるべきであろう。できないことの責任を負うふりはすべきでない。

芸術家がテロに対し可能な「理念の意思表明」とは議論することではなく作品を展示することだけである。議論は仲間内で運営方針を一致させる方法にすぎない。その限界を認知していない段階で毒山氏の立場は無効である。

二項対立に対しても疑問を呈していたが、マスヒステリー間の分断などささいなことである。最も重要な点、つまり弱者排除社会と従属的市民で二項対立は存在しない。分断があるのは社会と排除された弱者間にだけだ。

「サナトリウム」建設

さらに加藤翼氏と毒山凡太朗氏は別のアーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」の開設を発表した。以下が表明の全文である。

私たちはここに一時的なアーティスト・ラン・スペース「サナトリウム」(sanatorium:療養所)を用意する。ボリス・グロイスは「キュレーティングすることは治療することである。」と述べた。「『キュレーター(curator)』という単語が、語源上『治療する(cure)』という言葉に関係するのは偶然ではないのだ。」(『アート・パワー』、現代企画室、2017)。このスペースにキュレーターはいないが、キュレーションという言葉が元来持つ「療養」という性格によって、いまこの状況の処方箋として機能することを企図している。
 あいちトリエンナーレ2019は、一連の騒動によって、アーティストが、そして展覧会が政治的分断に巻き込まれている。私たちはまず、この傷を癒やさなければならない。私たちは分断のリスクをできる限り迂回し、冷静な態度による連帯の可能性を模索する。呼びかけ、橋渡しをし、情を喚起させる作品群を展示することによって、私たちはここに、なによりもまず連帯を促す姿勢を提示する。そして私たちは、あいちトリエンナーレの会期終了まで企画や作品を提案・募集する。賛同者が増すごとに展示内容は更新されていくだろう。
 8月3日、「あいちトリエンナーレ2019」の実行委員会(津田大介芸術監督および大村秀章愛知県知事・実行委員会会長)は、この国際芸術祭内の企画の一つである「表現の不自由展・その後」の中止を決めた。その理由は大量によせられた抗議や脅迫にある。「(展示を)撤去をしなければガソリン携行缶を持って(美術館に)お邪魔する」「県内の小中学校、高校、保育園、幼稚園にガソリンを散布し着火する」「県庁等にサリンとガソリンをまき散らす」などと書かれた脅迫メールが770通、職員の名前を聞き出しネットに書き込むことや、「県庁職員らを射殺する」と書かれたメールが送られるなどの事例も起こり、対応するスタッフが精神的に疲弊し、事務局の機能がマヒしたからである。
「表現の不自由展・その後」の中止を受けて、韓国のアーティスト、イム・ミヌクとパク・チャンキョンの2名が展示を一時的に中止したことに加え、CIR(調査報道センター)がすでに展示を辞退、タニア・ブルゲラ、ピア・カミル、クラウディア・マルティネス・ガライ、レジーナ・ホセ・ガリンド、ハビエル・テジェス、モニカ・メイヤー、レニエール・レイバ・ノボ、ドラ・ガルシアが展示を一時中止している。(8/22現在)
 事態を重くみた私たち参加アーティストは、8/12に津田監督を交えたオープン・ミーティングを開催した。そこではタニア・ブルゲラが「いかなる理由であろうとも、外部の力によって展示が閉鎖されれば、それは検閲である。」と訴え、キュレーターの一人であるペドロ・レイエスは「みんなの頭のなかに警察がいて、自己規制させている。それが問題だ。」と警鐘を鳴らし、そしてスチュアート・リングホルトが「私たちにはサナトリウムが必要だ。」と呟いた。
 私たちはアーティストたちの態度を共有しながら、トリエンナーレ実行委員会/アーティスト、右派/左派といった今回の騒動における二項対立の構造を超えて、この「サナトリウム」を本音の意見を交換できる場に育ててゆきたい。分断は何も生みはしない。私たちは「脅迫すれば、気に入らない展示を中止にできる」状況を直視する。そのうえで私たちは、市民から寄せられた抗議に真摯に向き合い、脅迫に対応する制度設計や精神を養うために、ここで具体的な手段を、テロ対策、防災、法律、建築、教育といった領域の有識者の視点を交えながら検討し、議論を蓄積させていく。
「サナトリウム」を開設する円頓寺本町商店街のこの場所まで私たちが辿り着くことができたのは、この街で滞在制作をし展示をしているアーティストとそれを支えてきたスタッフ、そしてこの商店街の人々との協力関係によってもたらされた賜物である。また私たちは、トリエンナーレのボランティア・スタッフの人々が今回の騒動に戸惑いながらも、今もなおその時間と労力を割いてくれていることも知っている。私たちはそうした市井の人々にこそ議論を開いていかなければならない。なぜなら「表現の自由」にまつわるこの騒動は、美術関係者に限らず、現代に暮らす私たちすべてに関わる、公-PUBLICの問題でもあるのだから。未来に向けて自治の手段を構築していく第一歩が、美術館ではなく、市民との距離が近いこの円頓寺本町商店街で開かれることには特別な意義があると、私たちは確信している。
2019年8月22日
あいちトリエンナーレ2019参加アーティスト有志

「サナトリウム」と「多賀宮」にはコンセプト上の違いはない。なぜ全く同じ企画を二か所で同時に開催する必要があるのか。サナトリウムの「自分たちが傷つけられた被害者たちである」というモチーフがかえって痛々しい。アート村内部内部へと収束していくだけの内輪話(実務的運営方針と精神論)に従属的市民を加えたところで「公-PUBLIC」になどなりはしない。どうせ「テロはいけないから監視を強化しよう」「そのための予算はどうしよう」「話し合いを継続しよう」「アートスペースをつくろう」という学級会で得られるような結論に至るのが関の山だ。

邪推を承知で批判するが、ラン・スペースを増やす潜在的な理由は

・芸術家の発言力強化

・作品展示の場所の増殖

・お気持ち市民の同意を増やす

これらが芸術家たちの利益になるからである。もちろん加藤氏と毒山氏の意識下にこのような意図はないであろう。その誠意に疑いはないが、構造として指摘せざるを得ない。

傷、病、サナトリウムが本当に必要な場所はアート村外部の排除社会と排除された者たち、そして市民と芸術家の頭蓋に存在する。

自称被害者たちが行う、排除社会と官製芸術への批判を含まない議論の場所など無効である。それが今のあいちトリエンナーレだ。

マスヒステリーの熱に煽られ発情したアートの寄生虫が繁殖するだけの醜いインスタレーションとなりたくなければ、問題設定と議論の枠組みを見直す必要があるだろう。それが自らへの全否定になろうとも。

多賀宮「議論企画の提案を広く募集する」と表明にもあるように毒山氏、加藤氏らアーティストは本気である。私もそれを信用する。

敵としてあいちトリエンナーレに敬意を表し、ここに文を終える。





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