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立場をとらないことが良い時代に、立場をとる場所がイグノラムス

ジャーナリストのルドガーブレグマンは「隷属なき時代」(2017)において興味深いことを書いている。『自由はおそらく人間が最も重視する理想である。だが、現状のそれは、中身のない自由だ。そうなったのはわたしたちがいかなる形であれ道徳を恐れ、公の場でそれを語ることをタブーにしてしまったからだ。たしかに公の場では、「中立的」であるべきだが、現状のそれは過剰なほど寛大だ。』

これは、現代の私たちが抱えるリベラリズムの問題点をよく表している。つまり、私たちは道徳と権利や自由と言ったものを分離して、道徳が権利や自由といったものに持ち込まれることを嫌う。タイトルにあげたような立場をとらないことが良い時代だ。これは、価値相対的、中立的ともいえる。ここには、自由の中で行われるどのような行為に対しても自らの道徳は廃して寛容で、立場をとらない人であることが求められる。それは、果たして自由をもたらすのだろうか。

リベラリズムの限界はハーバード大学教授のマイケル・サンデルも指摘するところである。彼は複数著書のなかで、リベラリズムが抱える中立性の問題を指摘する。私たちは、果たして本当に権利や自由の中において中立的でいられるのか、立場をとらないでいれるのか、道徳性というものがはぎとられた状態でいられるのか。彼は否と答える。。彼はわかりやすい例としてヘイトスピーチと、公民権運動がどちらも言論の自由の枠組みで行われたことをあげる。こういった中においても、私たちはどちらに対しても中立的で寛容な態度をとれるのだろうかといった疑問を投げかけ、リベラリズムの中立性の限界を主張するのである。彼は、このような限界に対して、権利や自由が共同体や個人に与える目的や善といったもの考える必要性を説くのである。

上にあげたブレグマンもそれと同じように、自由のなかでなされる美徳なき行為の問題点を指摘する。しかし、立場をとらないことが良い時代には、それを黙認するしかないと彼は嘆く。

今日の私たちは本当に権利や自由といった枠組みのなかで立場をとらない者として生きていけるのだろうか。立場をとらないことばかりが強調されることによって、立場をとることを避けることによって、自らの暮らす社会を権利や自由によって逆に息苦しくしてはいないか。

サロンイグノラムスでは、そういった立場をとらなくても生きていける息苦しい自由な時代において、違う道徳性や愛着を持つ様々な他人の前で自分の立場をとり、一緒に「善とは何か」「これはどういったものか」「どうあるべきか」「私たちの使命」「存在意義」「私たちとはいったいなにか」ということを考え、より高貴な自由を補償された多様性をもとに描いていくことを目指したい。

サロンイグノラムスは失われつつある、美徳を取り戻す、息苦しさを解消する一つの場所になるだろう。

サロンイグノラムスの情報→「トリセツ」「議論テーマ」「ルール」

【参考資料】

ルドガー・ブレグマン(2017)『隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働』野中香方子訳、文藝春秋

マイケル・サンデル(2010)『リベラリズムと正義の限界』菊池理夫訳、勁草書房

マイケル・サンデル(2010)『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』鬼澤忍訳、早川書房
 

マイケル・サンデル(2011)『公共哲学』鬼澤忍訳、ちくま学芸文庫