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西村賢太考

 その名前は芥川賞を受賞したときに知ってはいたのだ。2011年の受賞だから俺が24歳のとき。その風体とやさぐれた態度も印象に残っているが、当時の俺にとっては関心ごとから外れていて、その後もバラエティ番組などでその活躍が視界に入っていたはずだが自分とは無縁のものだとなぜか決めつけていた。ひとつは『苦役列車』という実写映画がつまらなかったせいかもしれない。チケットを買って観ることもしていないのだが、宣伝の印象だけでそう判断した。酒、煙草、買春、暴力というような無頼のステレオタイプにときめくほど俺も幼くなかった。

 だから一昨年の2月に彼が亡くなったニュースを聞いてもほとんど感慨が起こらなかった。54歳だからまだ若いとは思ったが、中島らも同様、アルコールに耽溺した人間の寿命としてはごくごく平均的なものだとも言える。しかし、彼の急逝を悼む声がやたら耳に入ってきたことが意外で、身近な友人や音楽家からも敬愛を受けていた存在であるのをあらためて知ることとなった。それから1年以上が経過し、『鬱の本』のなかでフォークシンガーの友川カズキが絶賛していたり、友人のニイマリコがその批評をSNSに投稿していたり、ラッパーのOMSBが愛読書の一冊に挙げていたりを立て続けに目の当たりにし、いよいよその出会いが準備されたように感じた。
https://www.gqjapan.jp/article/20231227-my-favorite-books-omsb

 そして、2023年の年の瀬に、巣籠もりの友として買い溜めておいたのが『どうで死ぬ身のひと踊り』と『二度とは歩けぬ町の地図』だった。そして発表された順序をなるべくなぞるように読み始めてすぐ、冒頭の短編『墓前生活』すら読み終わるのを待たずして、OMSBがインタビューのなかでも言及していた”藤澤清造”なる謎の作家が実在していたことも薄々感じられた頃に、これはもう数冊買い足していく必要があると、自分なりにこの作家を突き詰めていく必要があると決意したのである。
 『墓前生活』には感動した。冷静に見れば極めて私的な、稚拙な、独善的な偏愛の記録かもしれなかったが、主人公たる北町貫多の動機やその切迫感については疑う余地がなかった。誰からの共感を求めることもなく、孤独な必然性に駆り立てられて貫徹された行動であり文章だった。そのほとんどが事実に基づいていることも疑いがなかったが、たとえすべてがまったくの嘘でも構わなかった。最初の小説であり最後の小説。太宰治の『晩年』に込められていたのと同じような、どうで死ぬ身と開き直る一歩手前にだけある青春の炎が炸裂していた。

 藤澤清造。俺が西村賢太と出会うための鍵はそこにあったのだと思う。俺は西村賢太のことをきっと好きになれないだろう。しかし、彼が藤澤清造を追いかける限り、藤澤清造に追いかけられる限り、西村賢太のことを嫌いにもなれないのだ。言ってみれば、映画『苦役列車』に欠けていたのはその魂かもしれない。それは北町貫多と藤澤清造との出会いを描けとかそう単純な話ではなく、のちに藤澤清造を、そのまえには田中英光を強く求めずにいられない貫多の必然性を描くということである。さらに遡れば横溝正史に惹かれてやまなかった幼い貫多を、父親の犯罪によって封殺されたあどけなさを、19歳の貫多の生き様のなかに燻ぶらせることである。
 とはいえ北町貫多にとっても、藤澤清造はあくまでたまたま選ばれたひとつの対象に過ぎないとも俺は思う。それが別の作家である可能性はあったし、作家以外のものである可能性もあったのだ。しかしおそらく、すでに死んでいる人間でなければ届かない祈りではあった。秋恵にも日下部にも、出会うすべての人間に対して貫多は祈っていたはずだ。秋恵を含めた数々の女性との破局は、それが生きている人間相手だからこそ起こる避けがたい過程である。それを乗り越える術を教わってこなかった貫多は、異性や友人だけでなく、田中英光の遺族にさえその不器用さを発揮してしまったのだろう。だからこそ、石川県は七尾の西光寺の、住職やその母堂との関わりのなかにだけ特別な希望が残るのである。かけがえのないあたたかさが、藤澤清造をかすがいとして貫多をこの世につなぎとめるのである。

 ただ、それでも。最後は藤澤清造を捨てて生きてほしいと、北町貫多を捨てて生きてほしいと、どこかで俺は願った。西村賢太として幸福を享受してほしいと、そういう脱落も悪くないのではないか、と。きっとそれは私小説家としての矜持を捨てることにはなるけれど、また新しい小説が生まれるに違いなかった。そしてこれもまた西村賢太が死んだからこそ届く祈りなのだ。

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