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疲れていただけ

2022年5月8日(日) くもり
前回から一ヶ月も空くと不安になる。予約したのは今日だったか、時間を間違えていないか。

行く時間を間違えたことはないが、予約を忘れてすっぽかしたことは一度だけある。先生から電話がかかってきて焦った。その日はキャンセルして、予約を取りなおした。先生に迷惑をかけてしまった罪悪感、怒られるかもしれないという恐怖、キャンセル料はかかるのだろうかという不安。モヤモヤした気持ちを抱えながらカウンセリングに向かった。エレベーターを降りてすぐ、カウンセリングルームのドアをノックする。「おはようございます」と先生がドアを開ける。このあいだはすみませんでした、と間髪入れずに謝った。先生は何も気にしていないような顔をして、いつも通りのカウンセリングが始まった。怒られなかった。キャンセル料もかからなかった。「失敗しても大丈夫だったという良い練習になりましたね」と先生は言った。

2022年5月8日。
エレベーターに乗っているあいだ、この一ヶ月に何があったかを思い出そうとする。しかしどれだけ事前に準備しても、いざ言葉に出してみるまで自分にひっかかっているものが何なのかはわからないものだ。まずは挨拶がわりに今この時点での状態を伝える。昨日は低気圧で頭痛もひどかったが、今朝になっていくらかマシになった、とか。
そして本題。ひとつめは姉のことだった。noteでは整理したけれど、それをあらためて声に出して説明する。もう自分のなかでは一区切りついたところもあるけれど、おそらく必要な手続きなのだろう。実際、話しながら俺は泣いた。先生のまえで泣くことを今さら恥ずかしがることもないけれど、わざわざ泣いてみせるのもうっとうしいと思って堪えようと試みた。けど、まぁ、ダメだった。
「そこまで仲が良かったわけではないと言いますけど、五十嵐さんにとってお姉さんはどういう存在だったのですか」と何気なく先生に聞かれて、少し言葉を選びながら、「普通の人です。良いことは良い、悪いことは悪い。その普通さが自分にとっては特別で、ちょっと象徴のような」と答えた。「象徴」と自分で言いながらギョッとした。姉のことを美化しすぎているような気がしてブレーキをかけたくなる。そして「普通」という言葉も、それこそがこのカウンセリングを通して解体し続けてきた概念でもあった。おそらく先生もその単語にひっかかりつつ、それ以上は何も聞かれなかった。そう感じているのだからそう言うしかなかった。普通に生きること、その健気さや美しさが失われたように感じていると。

そこまでで20分程度。残りの時間は思いつくまま、他人に嫌われるのが怖いとか、また鬱になるかもしれないとか。具体的な場面が変わるたびに同じ内容のことを繰り返し訴えている。そして、「すべて大脳辺縁系の反応でしかない」と先生から一刀両断されるのが最近のお決まりのパターンだ。大脳辺縁系が発動するのは生きている限り避けられないことで、そこに理由を求めることは永遠に終わらない仮定の連続になる。どれだけ理屈で武装しても、突然物音が鳴れば俺はびっくりする。そのびっくりに後から理由をつけてもしかたがないのに。
それにしても今日はダメだった。昨日の低気圧をひきずっているのか、前半の20分で悲哀のスイッチが入ってしまったのか、先生の話が全然頭に入ってこない。いつもだったらこの流れでいくらか整理できるのに、俺の視線はテーブルに落っこちたまま。「いやぁ、今日はダメですね。全然すっきりしないです」と言うと、先生は「そういうもんですよ」と笑いながら答えた。

録音機材の入ったリュックを背負って、そのままスタジオに向かった。朝から何も食べていなかったのでセブンイレブンでチョコを買って食べた。日曜日のスタジオは予約がいっぱいで、一時間しか取れなかった。休憩を入れず、ボーカルのテイクを重ねていると酸欠で倒れそうになった。

寝て起きて、寝て起きて。
あれから数日経って気づいたのは、「疲れている」というすごくシンプルな事実だった。関係ありませんという顔で過ごしていたけど、ゴールデンウィークの煽りを受けてしっかりと忙しくなっていた。日記帳のカレンダーに文字が詰まっている。いやぁ、こうしてみるまで気づかないもんだね。へとへと。次のカウンセリングではもう忘れているだろうから、先生に電話して伝えたかった。「すみません、忙しくて疲れていただけでした」って。

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