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友人に就いて

 友人は多い方だと思う。一人でいるのも苦痛じゃないし、時間ならいくらあっても使い道には困らない。だけどなんだかんだで友人と会う予定を入れてしまうのはただの寂しがりだろうか。

 友人と会うことに何かメリットがあるのかといえばこれははっきりとある。一番はやはり”煮詰まらない”ということだろう。部屋の換気をするようなものだ。他人に向けて言葉を選ぶことでまず考えが整理されるし、具体的なアドバイスをもらわなくても、かすかなリアクションのなかにその客観的な評価を読み取ることもできる。あ、俺が良いと思っていることも他人から見るとそうでもないんだな、とか、でもそのうえで俺はやりたいと思っているからやろう、とか。それは他人の目を気にするという消極的な態度とは違う。自分の輪郭を明確にするために他人の目に触れさせておく、と言った方が正しいだろう。

 じゃあ友人の数は多い方がいいのかといえば、これも多い方がいい。これは俺自身の依存心が強いことの裏返しかもしれないが、1人の人間にわかってもらおうとするとその期待を裏切られたときの失望感が致命的なのだ。
 自分の秘密が10あるとしたら、誰か1人にわかってもらえるのはせいぜい3か4くらいまでだろう。”わかってもらう”というのもなかなか曖昧で危険な表現だが、”肯定されなくとも否定されずに話を聞いてもらう”くらいの意味を指すこととしよう。誰にもわかってもらう必要のないことが1あるとして、残りの9は誰かに打ち明けておきたいと俺は思う。そもそも打ち明ける必要があるのかというとそれもやはりあって、教会の告解室がそうあるように、心安らかに生きるためには恥辱や罪悪の記憶をどこかに預けておく必要がある。まして一度鬱になったことのあるような人間にとって、信頼に足らない自意識と心中するよりも、能天気な友人の意見にほだされる方がよっぽど健全だろう。
 しかし、抱えている10のうち9の秘密を打ち明けようとするとき、1人の人間に3を理解されるからといって3人の友人を集めれば9のすべてをカバーできるわけではない。他人に理解されうるエリアは重なり合っている部分も多く、それぞれ①A+B+C、②A+B+D、③A+B+Eというように、実際は3人集めてようやく5をまかなえるくらいの分配なのかもしれないからだ。だから本当に9を打ち明けようとするとき、少なくとも7人以上の友人を必要とするのではないだろうか。
 もちろんその相手は友人に限らない。現在の俺にとってそのメインバンクはカウンセリングの先生で、彼一人で5か6くらいはカバーできているような気もする。ただ、その一点に依存するならそれは鎮痛剤に頼って身を滅ぼすのと同じ結果が待っているので、先生がいなくても生きていける自分を常に想定しておく必要はある。それでも、カウンセリングがあるおかげで友人に対する過度な期待と失望を免れていることは間違いない。これをリスクヘッジと言ってしまうと色気がないけどそういうことだと思う。

 思いついたので少し話を変えるが、つまり、”わかってもらう”というのはそれほどハードルが高いことなのだ。そもそも自己開示をする、他人に悩みを打ち明ける、というアクション自体がそう簡単なことではない。だけど一般的なイメージとして、幻想として、それはもっとリーズナブルなものだと思われているような気がする。「言ってくれればよかったのに」といった耳馴染のある無責任な一言はその象徴的なものかもしれない。ふざけるな、言えたらとっくに言っているさ。ただ、口に出すのもつらいことが俺にはあり、ましてそれをあなたにわかってもらえるとは思えないから言わずにいただけ。もっと言えば、口に出そうにも俺がその本心に気づいていないことだってあるくらいなんだ。自分自身がわかってないことをどうやって言葉にできるというのか。
 にもかかわらず、このハードルをなかったことにしたいという欲望もまた人間は持っているらしい。つまり、”わかってもらえた”という幻の慰安を得たいがために、自分自身の側を変形させていくのである。他人に理解されうる程度まで解像度を落とし、自己の解釈を記号化していくこと。わかりやすい客体を演じて生きること。いま俺が想定しているものは何かというとSNSにおける悲喜交々のことだが。注目を浴びるためなら自分自身の欲望を捏造することも辞さない。複雑でグラデーションのある内面をインパクトのあるフレーズで塗り潰してしまうことも辞さない。そんな、ある意味では自傷的な態度が、セルフネグレクト的な態度が巷には溢れているように感じる。だけど孤独はそう簡単に癒されるだろうか。癒やされるべきだろうか。俺はそんなふうになりたくないから、友人にだけそっと打ち明けることを選ぶのかもしれない。

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