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神奈川近代文学館「帰って来た橋本治展」

 泣き腫らした目を冷ましながら、降りそうで降らない雨雲を避けるようにしてみなとみらい線に乗りこんだ。一人で扱わなくていいことですと先生は言うから、カウンセリングルームを出たらさっきまでの話は振り返らないようにしている。そこで得られた感覚は確かに残っているはずで、下手に考えてこねくり回すより身体になじむのを静かに待つ方がきっといい。元町・中華街駅で降りると、まだ新しくて広々としたその壁には、開港当時の町人たちの写真が等身大で転写されている。エスカレーターに乗って地上を目指すあいだに数十人の幻影とすれ違ったが、それだけでなんだか感慨深くて、令和時代の町人の一人として俺の姿が転写される日も来るのだろうか、と想像した。人間の歴史。それと自分が地続きだと感じられるとき、少しだけ孤独が癒されるような気がする。
 アメリカ山公園を抜けて、外国人墓地の横の抜けて、横断歩道を渡って港の見える丘公園を抜けて、庭園の奥にある橋を渡ったところに神奈川近代文学館がある。「近代」という言葉が表すものを、俺は最近になってようやく把握した。なんだか漠然として恣意的なものかと思っていたが、なんのことはなく、ひらたく言えば「明治・大正・昭和」のことと理解して差し支えないようだ。それ以前、安土・桃山時代と江戸時代を合わせて「近世」、それ以前を「中世」とか「古代」とか呼ぶらしいけれど、今はまだそこまで関心が持てない。昼下がりの陽が傾いて自分の影が長く伸びていくように、歴史に対する射程距離は年齢を経るごとに長くなるのだろうと思っている。37歳になった俺は、かろうじて近代までなら手が届きそうな気がしている。手が届くというのはつまり、彼らと自分のあいだは途絶えることなく地続きで繋がっているという感覚だろう。その感覚は理屈に先立って存在するべきものだから、感覚抜きではいくら考えてもわからない季節がきっと誰にでもあるはずだ。小学校から始まって高校まで、俺は歴史の授業がひどく苦手だった。黒板の表面にかわるがわる流れては消える存在を、自分と同じように生きていたものとして感じとれなかったからだろう。だから今はその言い訳とリベンジの時間だとも言える。10代そこそこのガキに、歴史なんてわかるわけ、ね・え・だ・ろ。

 俺にとっての橋本治は、「平成とはなんだったのかを教えてくれた人」だ。正確に言えば、「平成とはなんだったのかをどう考えたらいいのかを教えてくれた人」かもしれない。膨大で多岐にわたる彼の活動を紹介するのは難しいことだが、俺が特別に思い入れのある作品をひとつ選ぶとすればそれは、『ああでもなくこうでもなく』という単行本シリーズだ。これは雑誌『広告批評』で連載されていた時評をまとめたもので、1997年から2008年まで計6巻にわたって刊行されている。俺がこれを読んだのは2020年の夏で、感染症の蔓延と政治の混乱に怯えて為すすべなく自室に閉じこもっていたときだった。とにかく安心したかったのだ。安心するために理解したかった。できることなら現在と、少し先の未来まで理解して正しい行動を選んでいきたかった。だけど現在を理解するためには現在だけでは足りないし、個人の人生と国家の盛衰は絡みあっていて切り離すことができない。自分を知ることと歴史を知ることは同じだった。それが同じであることを証明する言葉も持たないまま、だけど確信に近い予感に従って生きるしかない。せめて自分が生まれ育った90年代がどういうものだったのか、平成とはなんだったのかだけでも理解できたら。そのときに助けてくれたのが橋本治だった。
 橋本治が語る時評は、俺がこれまで見聞きしてきたものとは明らかに違った。新聞やテレビ、そして教科書によって伝承されるのとは別の歴史がそこに浮かび上がってくる。いや、起こっている事実は変わらないのだが、その意味や文脈が変わるのだ。しかしそれはたとえば"橋本史観"と呼ぶほどたいそうなものでもない。橋本治が提示しているのは、「こういう見方もできる」という展開の実践だけだった。歴史はひとつだとしても、歴史を生きる個人にはそれぞれの真実がある。その真実を持っていていいんだよ、自分のやり方で歴史を理解していいんだよ。橋本治はそう教えてくれたような気がした。

 橋本治が人生をかけて手を伸ばしたのは、近代であり近世であり中世であった。その射程距離の長さを俺が認識できたのもつい最近のことである。だって俺には近代の終わり、平成から始まる末端としての現在しか見えていなかったのだから。だからこそ、これからもっと見えるようになるだろう。2024年4月30日。「帰って来た橋本治展」は彼の膨大な実践と、その運動量を空間的に知らしめてくれた。

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