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夜明け前

 2度目の新型コロナウイルスに罹って、仕事も1週間休みになって、昼も夜も寝ていたから睡眠薬を飲む必要がなくなった。特に初日は症状がひどかったから咳き込むたびに目が覚めていたし、そこで睡眠薬が下手に効き過ぎたら痰を吐き出せなくて窒息死してしまうと思って一人でビビっていた。
 いつかは睡眠薬を辞められたらと思ってはいたのだ。眠れるに越したことはないけど飲まないに越したこともない。あれは感染症のパンデミックが起こるまえのことだから2019年の終わり頃。少なくとも4年で365日となると、これまでに1,460錠の睡眠薬が俺の身体を眠らせたことになる。医者は問題ないっていうけど、人間の意識を強制的にシャットダウンできる薬に何のリスクもないはずがあるだろうか。それに薬剤師からはその処方量について毎回注意を受けていて、だけど処方箋を出しているのは医者なんだから注意するなら医者に言ってくれと開き直ったふりをしている。とにかく、そういった諸々の煩わしさから解放されたいという気持ちはいつもどこかにあって、今回がちょうどいいタイミングだと思った。
 そして睡眠薬を飲まなくなって、感染症の隔離期間が終わって3週間が経った。途中、後遺症だと思われる謎の発熱はあったがそれも一晩で治まって、食欲も戻ってきたし、ようやく身体の心配がなくなってきたところだ。しかしそうなると余計に気になってくるのは睡眠の問題で、認めたくないことだが、やはり、うまく眠れていないのである。もちろん長年飲んでいた睡眠薬を急に辞めればその反動があるのは当然だけど、今年に入ってからは医者の指導のもと錠剤を半分に割って飲むようにしていたし、段階的に退薬したつもりだ。それなのに22時に眠れば目が覚めるのは深夜の1時で、そこからは布団にもぐってひたすら眠気を待つばかりの日々。ヨガを始めた片岡鶴太郎は健康的な生活を求めて早起きするようになったが、プログラムを重視するうちにタイムスケジュールがどんどん前倒しになり、最終的には夜23時に起床する生活に落ち着いたという。俺はその本末転倒なエピソードが好きなのだが、いまは無邪気に笑うことができない。深夜に目が覚めるたびに俺は、パンツ一枚で座禅を組んでいる片岡鶴太郎の姿を思い出しているのだから。片岡鶴太郎のことも忘れて、朝まで目を覚まさずにいられたらどれだけ幸福なことだろうかと思う。
 仕事の関係で出会った臨床心理士に相談をすると、「たぶん子どもの頃から眠れていなかったんだと思いますよ」と言われた。だけど俺はその見解には頷けなくて、だって俺は中学校にあがるまではだいたい夜21時には眠って朝5時には起床する生活を好んで続けていて、眠れなくて困った覚えはなかったから。早朝の静かさが好きだった。誰もいないリビングを独占できるのはまだ家族が眠っているその時間帯しかなくて、なぜか再放送されていたアニメ、『21エモン』や『オヨネコぶーにゃん』を一人で観るのを楽しみにしていた。いま思えば、漠然としかし確実に荒んでいた家庭のなかで、早朝のリビングだけが俺にとって平和な時間だったのだろう。自転車に乗れるようになったあとは、人気のない町内をあてもなくぐるぐるまわっていたこともあった。そうやって少しずつ、自分が生きる世界を拡張しようとしていたのかもしれない。
 2024年4月20日。あの感覚は37歳になった今でもはっきりと残っている。目が覚めて時計を見るとまだ深夜の3時だった。ちょうど『霜降り明星のオールナイトニッポン』が終わった頃。覚醒した脳を鎮めて夢の世界に戻ろうとするけどうまくいかなくて、もう一度時計を見ると4時になっていた。これは深夜だろうか早朝だろうか。カーテンを開けてもまだ暗い。ついでに窓を開けると冬の寒さはとっくに影を潜めていて、ごみ捨てに行くだけならTシャツでも大丈夫なくらい。どこかからスズメの声が聞こえる。俺は眠るのをあきらめてランニングウェアに着替えた。だけど支度をしているうちにそれまでの緊張感が抜けて眠気が戻ってくるのもいつものことで、今度はそれを打ち消すようにして家を出た。ついさっきまで満開だったはずのサクラはいまや名前のない街路樹にしか見えない。入れ替わるようにしてツツジが、そこかしこでその全盛を知らしめている。それだけで俺は笑ってしまう。あるはずのものがなく、ないはずのものばかりがある。信号機の赤色だけがやけにくっきりと見える。四車線道路を平然と横切るとき、俺は恩赦で解放された死刑囚のような気分になる。自由。この街を、あなたの好きなようにしていいのですよと創造主から通達が届く。父親も母親もいない。警察も弁護士もいない。何度でもやってくるシャッターチャンス。最高の瞬間すべてに立ち会う。すべてに間に合う。だから夜明け前が好きだ。陽が昇る。一日が始まる。そして俺はその晩ひさしぶりに、睡眠薬を飲んでぐっすり眠った。

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