見出し画像

37

 昼ごはんを買いに出かける。自分の部屋で鳴っている音楽が外まで漏れているのに気づいて、戻ったらボリュームを下げないといけないと思う。そこに隣の家から伯父が出てきたので挨拶する。祖父母と従姉妹がお好み焼きを作っていて、ちょうどいいから持って帰れと言う。ふと気づくとそこに兄もいて、一緒にお好み焼きを持って帰ることにした。
 実家に戻った俺は、一番奥の部屋を、両親の寝室を恐る恐る覗いたがそこには誰もいなかった。さらに奥の物置を覗くと人間が3人、土嚢のように転がっていた。最初はサングラスをかけた不良集団のように見えた。だけどよく見ると、名前を知っているか知らないかくらいの俳優のような、落ちぶれた中年男性なのだとわかった。彼らは住所不定で、生活保護を受けることもなくここに匿われているらしい。どうせまた父親が拾ってきたものだろうと思いながら、「ご飯は食べてるの?誰があなたたちの面倒を見てるの?」と質問したが、彼らは国の制度に文句を言うばかりで俺が求めているような答えは返ってこない。
 話にならないとあきらめてリビングに戻ると、アップライトピアノの椅子にまた別の浮浪者が座って怒鳴り声をあげている。外に追い出そうと思って彼の肩を叩く。 浮浪者は泥酔しているようだ。携帯電話で誰かと話しながら、あげく鍵盤の上にゲロを吐いた。さすがに我慢ならなくなって、こんなものを持ち込んだ父親を責める気持ちも込めて浮浪者を介抱して見せる。「どうにかしろよ。ゲロが詰まって死んじゃうよ」と今度は俺が怒声をあげる。しかし父親はキッチンで突っ立ったまま無反応だ。視線をずらすと、食卓に座っている母親の存在を確認できたが、顔を伏せるようにして黙秘を決め込んでいる。
 そのさらに奥、リビングの隅に追いやられるようなかたちで姉が座っている。姉だけがこの異常事態から目を逸らせず、ただでさえ病気の身体をさらに悪くしている。顔面を青くして冷や汗をかき、なんでこんなことになったのかと嘆きながら椅子から転げ落ちていく。このままだと姉も死んでしまう。最悪の事態を食い止めるためにも俺は、「あの浮浪者とお姉ちゃんは関係ないよ。あいつが死んだってどうでもいいじゃないか」と必死で呼びかける。そのときにはもうこれが夢だってことを俺は気づいていたのかもしれない。だとしたらなおさら、これが最期かもしれないのだ。ノースリーブを着ている姉の肩に顔を埋めるようにして、俺は姉を抱きかかえた。「俺はもう遠慮しないでお姉ちゃんにべたべたすることにする。もう後悔したくない」と言葉にして泣く。冷や汗と涙が姉の肩の上で混ざる。跳ね除けられてもしかたがないと思っていたが、嫌がることなく姉は微笑んで返事をする。「これが本当の信頼なんだね」。 実際の夢のなかでは「本当の信頼」の部分をうまく聞き取れなかったが、だけど字幕が出るように「本当の信頼」もしくは「親愛」というような意味だとわかった。あまりにまっすぐ過ぎる答えに照れてしまいそうなところを、冗談にしないと覚悟して俺は、「本当の信頼。俺には今まで無かった」と呟いた。そして姉はまだ微笑んだまま、「私も無かった」と言った。この家族には何も無かった。何も無かったからこそ、これからは違うやり方をする。

 2024年3月30日3時55分。全力疾走したあとのように呼吸が乱れて、右目だけ濡れている。二度と戻れない夢の感触が残っているうちにその意味を考える。自分があんなふうにはっきりと気持ちを伝えられたことは、これまでの現実でも夢でも無かったはずだ。そして、夢で会う姉はいつも黙ったままで、あんなふうに返事をしてくれたことがなかった。俺は昨日で37歳になった。だけどその数字はなんだかリアリティに欠けている。その理由はきっと姉が36歳で亡くなったからだろうと、昨夜もまた眠るまえに思った。姉の年齢を超えてしまう。姉が生きた時間を超えてしまう。その、焦りとも何とも言えない感覚は4年前からずっとあって、それまでに好きなことをすべてやろうと思っていた。だからその先のことは考えてこなかった。さっきまでの夢をiPhoneのメモに書き起こして、一息ついたらやたら悲しくなって泣いた。嗚咽して、酸欠で目の周りが痺れている。誕生日の朝、母親からメールが届いていたことを思い出す。残った仕事を片付けるかのように、最低限のことだけを書いて返信を送った。姉のことがよぎったのに、それについては触れなかった。いつまでもその話を母親としたくなかった。もう母親を慰めたくなかった。慰められたいのは俺の方なんだ。今までずっと。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?