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間に合いたい、という気持ち

2021年12月5日(日) 晴れ
どんな一日になるかは目を覚ますまでわからない。アラームで目覚めるか、陽差しの眩しさで目覚めるか、通学路で騒いでいる小学生たちの声で目覚めるか。外は雨が降っているか、冷え込んでいるか。俺はよく眠れているか、さっきまでの悪夢を覚えているか。目を開くと外はまだ真っ暗だった。3時かもしれないし5時かもしれない。iPhoneを見ると5時だった。長い一日のことを考えるともう一度眠ろうか迷うところだったが、目を閉じてじっとしてみても思考が夢へとなだれ込まない。俺はあきらめて身体を起こすことにした。

5:30。布団から出た勢いで着替えを済ませ、水分を摂り、軽いストレッチをする。軍手とマスクをウインドブレーカーのポケットにしまい、靴紐を結んだ。玄関のドアを開けると思ったよりも5℃低い。日の出の時間が気になる。間に合いたい、という気持ちで焦って、身体が目覚めるのを待たずに走るペースは速くなっていく。眠っている街。無人の街。造りものの街。この時間なら誰ともすれ違わないからマスクをしなくていい。聴きたくないノイズがないからイヤホンで耳をふさがなくてもいい。俺は三車線道路を我が物顔で横断することも出来る。明滅する信号はもはやあってないようなもの。この感覚のまま歳をとればいつか俺は車に轢かれて死ぬだろう。でもその頃には自動運転が普及してAIがジジイの俺を避けてくれるかもしれない。日の出が見たい。ジジイの俺は走っているか?間に合いたい、という気持ちで焦っているか?

鼻の中に凍るような痛みを感じる。心臓が血液を送り込むが、末端に熱が届くまでもう少し時間がかかる。軍手を持ってきてよかった。上着はもう一枚着てきてもよかった。山を越えると視界の奥に、風景の突き当りに、スクリーンを焦がすような赤が待機しているのを見つける。俺の部屋はまだ真っ暗闇の中にあって、それでも端っこではすでに始まっている。黒から濃紺、藍色、オレンジ、赤へ。このグラデーションを見るたびに思うことが二つある。ひとつは、街がまるでオウサマペンギンの胸に抱えられているようだということ。もうひとつは、人間は朝焼けと夕焼けの風景を見分けることができるのだろうか?ということ。

日の出のほかにもうひとつ、夜が明ける前に観覧車の写真を撮りたいと思った。気持ちのいい数字の羅列は何かあるだろうかと打算的な考えが頭に浮かぶ。これほど自由なのに、なんて忙しいのか。でもしかたないのだ。俺は観覧車の写真を撮らなければいけない。しかし最新のiPhone SEで撮った写真には、俺が感じている夜明け前の暗さが記録されていないようだった。高性能になればなるほど映らなくなる暗さというものがある。初代のiPhone SEで撮った写真の暗さ、補正の無さが俺は好きだった。

山下公園へ着いた頃には街も目を覚まし始めていて、オレンジの比率が多くなっている。同じように一人で走っている人間や、犬を連れて歩いている人間とすれ違う。釣竿を抱えて帰っていく人間、写真機をぶらさげて缶コーヒーを飲んでいる人間。俺はマスクをつけると、はね返る自分の息の暖かさに少しホッとした。いつもこの公園で折り返す。ストレッチをして、呼吸を整える。カモメがお腹を見せて飛んでいる。海風が容赦なく吹いている。

6:30。日の出には間に合った。同じものを見るためにたくさんの人間がそこに集まっていた。日の出を見るたびに何度でも正月がやってくるような気がする。昔、父親と二人で見に行ったことがある。そのときの景色はすべて忘れたが、自動販売機で買ってもらったおしるこが熱すぎたことだけは覚えている。あのおしるこは今はもうない。真っ赤な太陽がじわじわとせり上がるの待っているあいだに俺の身体はすっかり冷えていた。それでも、もう一度走り出す。今日が昨日の続きじゃなくなったような気がして、良い一日になりそうだと思った。帰り道はもう朝だ。曖昧さのない、はっきりとした朝。

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