見出し画像

2024年2月19日

 涙を乾かす時間もないまま、俺は午前の路上に放り出された。霧雨が降り始めていて、傘で顔を隠すにはちょうどよかったかもしれない。だけどお墓参りをするにはあいにくの天気だ。それでも、週末は雪の予報も出ているからいまのうちに済ませておくのが吉だろうと思って、俺はそのまま地下鉄に乗って霊園に向かった。
 いつもの石屋で花と線香を買い終えた頃には、少しだけ晴れ間が見えていた。いまのうちに掃苔を済ませてしまえたらと思って足早になる。さっきまでの話が頭をよぎらないでもなかったが、カウンセリングルームを出たらもうそこには戻らないと決めている。苦しむのはあの場所でだけでいい。それに、思い切り泣いたことで身体は軽くなったみたいだ。いつになく気楽で、ひとりごとの多いお墓参りだった。電線にとまったカラスが俺を監視するようにしてたびたび鳴き声をあげている。そんなこと言わなくていいじゃんか、ゆっくりさせてくれよ、と俺は言い返す。4年前の2月23日に亡くなった祖父と、その1年前に亡くなった祖母と。そして骨はここに埋まっていないが、4年前に亡くなって、生前のように気まぐれで祖父母のもとに顔を出しているだろう姉のことを思う。持参したライターのオイルが切れて思うように火がつかない。石屋がくれたマッチと新聞紙を使い切ってようやく線香に火がついた頃に、またぽつぽつと雨が降り出した。お墓参りをするときはいつも切り上げるタイミングを失ってしまうから、むしろちょうどよかったかもしれない。できない握手を想像のなかで交わし、また来るよと声をかける。次はもう夏か。

 2019年2月23日。祖父が亡くなった。膵臓か何かのがんだったと思うけれど、年齢を考えればほとんど大往生のようなものだろう。それを遺書と呼ぶのかわからないけれど、A4のプリントを祖父は残していた。そこには、誰にどういう順番で訃報を届けるか、どこの葬儀屋に電話してどのプランを選ぶか、誰が喪主を務めるか、といった遺族がとるべき手続きが順序立ててまとめられていた。そのA4こそが祖父だった。そして最後の最後まで。病院にずっと付き添っていたのは母親で、息をひきとったときは二人きりで過ごすことができたらしい。そのことが母親の気持ちを慰めたようだった。口うるさい親戚どもに邪魔されることなく、自分の父親の最期を見届けることができた。何も後悔の残さずに。
 その連絡をもらったのは昼過ぎだったと思う。俺は友人の花池君と象の鼻パークにいた。象の鼻パークは横浜みなとみらいにある一角で、その日は中古レコード店が集まって即売をするイベントが開催されていた。祖父がいつ亡くなってもおかしくないとわかっていたけれど、病院につきっきりになるとまるで祖父が死ぬのを待っているような気持ちになってしまって、それが自分でも居心地悪かった。母親からの連絡で祖父が亡くなったことを知って、花池君にもそのことを伝え、べつに今から病院に行ったってしょうがないし、このまま遊んでも罰は当たらないだろうと思うけど、だけどこんなときは一人で過ごした方がいい気がする。そういえば、ちょうど今のような、雨こそ降っていないけどすっきりしない天気だった気がする。解散するまえに桜木町駅のスターバックスに入って一杯だけ何か飲んだような気がする。こういうときどう過ごすのがふさわしいんだろうね、わからないね、と話した気がする。
 穴のあいたような、でも風通しは良いような、どっちつかずの気分で家まで帰った。夕飯は、スーパーで買った刺身か何かを食べたような気がする。瓶ビールを探して買って帰ったような気もする。おじいちゃんはビールが好きだった。酔っぱらうと上機嫌になって大きな声で笑っていた。まだお酒を飲めなかった幼い俺もその雰囲気が嫌いじゃなかった。毎年開催されていた町内会の夏祭りでは、俺が行く夕方にはもうすでに酔っぱらっているみたいで、白テントの下から手を振ってくれた。姉か兄か従姉か、誰かの結婚式ではおじいちゃんからビールを注いでもらって、一緒に飲み交わして、その頃にはすっかり耳も遠くなっていたからじっくり話し込むような感じでもなかったけど、幼いときに見ていたおじいちゃんの姿に自分が近づいたように感じて嬉しかった。天国なんてないと思う。だけどまた会えるような気はする。そのときはひたすら瓶ビールを空にしていきたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?