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戦争 回避 暴露

2022年2月27日(日) 晴れ
ようやく冬が抜けるのか。祖父が亡くなって3年が経った。梅の花が咲きはじめる頃、俺にとってはここが季節の変わり目なのかもしれない。
カウンセリングでは、その話はしなかった。19日に久しぶりの弾き語りがあったから、まずはその話からスタートした。その日は低気圧直撃、曇天の土曜日だったけれど、天気に振り回されることなく自分のペースで過ごせた。自分のなかにテーマを持って、それを大切にしながら演奏することができた。よくできたと思うけれど、達成感はない。でも、達成感がないというのは良いことなのかもしれないと最近思う。俺は人生が変わるような出会いを、稲妻が走るような瞬間を、追い求めるがあまり空回りばかりして疲れ切っていた。その、無様にすっ転んでいく姿にも美しさはあると思うけれど、違うやり方もあるとようやくわかってきたから。今はそれを試しているところだ。

 それにしても、まさかカウンセリングで戦争の話をすることになるとは思わなかった。比喩ではない戦争の話。でも、そのことを先生に話せてよかった。例外的な出来事に対して、自分が何かしなければならないという使命感を持つこと。それは俺の人生にもこれまで何度かあった。俺には俺の生活がある、けれど、今度ばかりはそうも言っていられないのではないかと。何がしたい。どうありたい。これまで何をしてきた。誰に何を言われてきた。自分の感覚にまとわりつく無数の声を、暗黙の規範を、ひとつずつ丁寧に剝がしていくと何が残るのか。俺の場合は、「変わらずに過ごしていたい」ということだった。
瞬発的にアクションを起こすことも、連帯してメッセージを発信すること素晴らしいと思う。でも、自分にそれができるかといったら難しい。苦手なんだ、そういうの。何も言わないのだって命がけ。何か言わなくちゃって思うけど、俺の言葉には時間がかかる。これまでもずっとそうだったし、戦争が起きたってそれは変えられないだろう。だからって何もしないわけじゃない。俺にできることを俺はやるしかない。その遅さにもきっと意味があるはずだ。

かれこれ6年以上にカウンセリングに通っているけれど、通い始めた頃から今でも変わらずにくり返し出てくるフレーズといえば、「安心」と「回避」のふたつだろう。俺たちの行動はおそらく、基本的には何らかの問題を解決するためにある。不快感を退けるために、安心するために逃げたり戦ったり。だけど、解決するための問題が、実際にはまだ何も起きていなかったらどうすればいい。何も問題が起きていないのに、強い不快感が襲ってきたらどうすればいい。ただそこにいるだけで傷が痛むならどうすればいい。そんなときに起こす行動を「回避」と呼ぶ。何の解決にもならない無駄な行動。何の解決にもならないからこそ延々とくり返さなければならない行動。くり返せばくり返すほど安心は遠ざかるというのに。何もしなくてよかったのに。そのままでよかったのに。俺はこの人生でそれを、何千回、何万回とくり返してきた。

「曝露するということは、何かをできるようになることじゃないんです。電車に乗れた、他人に相談できた、失敗したけど大丈夫だった。どれも大切な体験ではありますけど、それ自体が曝露の目的ではない。曝露とはまず、自分自身の恐れに対しての曝露なんです」

先生はそう言った。なんて難しいのだろうと俺は思う。でも、言っていることはなんとなくわかる。曝露とはつまり、むきだしの状態で雨風にさらされること。安心できないままそこにいること。回避しないで自分の恐れを感じること。
それをやるとどうなるのか。それをやったって状況が変わるわけでもない。安心して眠れるようになるわけでもない。すでに炎は燃えているのだから。だけど、これ以上は広がらないだろう。そこに薪をくべたり、油を注いだりしなくてもいい。そのままそこで燃えていればいい。燃えていることははっきりとわかるのだ。見つめれば見つめるほど大きくなっていた炎に、今ならウインクを飛ばすくらいのことはできるかもしれない。

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