【再掲】 私の体はだれのもの
『国際女性デー』だそうですね。
◇ ◆ ◇
『発育がいい』といえば聞こえが良いが、背丈自体は大して伸びなかった。
150センチと少し。そのくせ胸やお尻がパーンと張って、事前に伝えた身長に合わせられた社の制服が入らなかったFカップ。新卒。入社を控えた3月。
『すみません、少し窮屈で……』
そう申し出たときの恥ずかしさったらない。制服の管理をしているのは総務の女性で、しかも高身長のスレンダーときているのだから辛かった。彼女は良い人だ。もちろんハラスメントのつもりはさらさらないだろうけれど、視線は大きく迫り出した胸に刺さっていた。
すぐにサイズを取り寄せるから、楽なサンプル制服を選んで下さいと言われた。胸が楽だったのは4Lだった。届いて着替えても腕が長く、丈も長く、タグの適正身長を見ると170センチと記されている。なかなか出ないから特注だそうだ。
制服が届かないから、しばらくはオフィスカジュアルな格好で仕事をしていた。上司の中には『どうしたの?』と尋ねる者もあって、事情を説明すると『あー』と返された。その視線は、やっぱり重たい乳房に刺さっていた。
150センチの女性の場合は、諸々とMサイズが一般的だそうだ。
体重も40キロ台が望ましいらしい。
服は胸に合わせて3L〜4L。体重は60キロある。60キロ以上は一律『デブ』とされ、女ですらないらしい。へえ。
学生の頃から、『ガタイがいい』とか『豆タンク』とか、シンプルに『デカ乳のウシ』とか、バイト先の酔客達が笑っていた。
でも彼らはそうして大声で笑うわりに、こちらの大きな胸の深い谷間を輝く瞳で、夏の虫が蛍光灯に吸い寄せられるように見ていたし、こちらがニコッと微笑むと途端に相好を崩して鼻の下を伸ばし、タクシー代やお小遣いをくれた。
だから別に、恨んでいない。
こいつらにも妻や娘がいるんだな、さぞ華奢で美人で可愛いのだろう。
こんな『巨乳の柔道選手』とはちがって。
すれ違う人、男女問わず。
小さい子どもなんかからの寸評が1番きつい。物の善悪が分からないから『おっぱい!』とか『ふとっちょ!』とか言って、近くの親にぶっ飛ばされていた。平身低頭の保護者に『いえ大丈夫ですから』と恐縮しつつ、恥ずかしいし悔しいし、泣けて仕方なかった。好きでこの体に生まれた訳ではない。
痩せているとは言わない。
確かに『ガタイがいい』。
それは認めるけれど、でも、他人から、特に男からそう言われると、心の中に嵐が生まれて時折バリバリと雷鳴を轟かせながら荒れ狂う瞬間があった。
私の体は、お前のためにあるんじゃない。
そう思った。
でもそういう主張はどうやら、日本だろうが海外だろうが、通らないらしい。
男たちは女を裸にして、それが特に巨乳だったりすると、ホルスタイン種の品評会の如く取り囲んで点数をつけ、好き放題に言う。
巨乳はバカそう。
チビだからバランスが悪い。
デブに見える。
隣を歩かせるのが恥ずかしい。
妊婦みたいな腹。
散々言うのに、いざセックスとなると、ちょっと頭が足りない巨乳のロリ顔低身長が望まれる。
なぜ?
そういうふうに出来ている?
世の男性全員が?
それなら私、もう女なんかやめたい。
こんな胸もお尻もいらない。
◇
時は流れて20代も後半、他部署の、ひとまわり年上の男と結婚した。流行りのイケメン俳優などに似ているかと問われればノーだが、優しいし、彼の両親も非常に穏やかだったので、プロポーズは断らなかった。
夫はいい人間だ。
私のことをかけがえのない女として愛している。
料理を褒め、かわいいと褒め、あなたと結婚できるなんて思わなかった、とか。
夫の愛は嘘ではない。よく分かっている。
でも私を、他の男の社員の間で『ぽちゃぽちゃのおっぱいちゃん』と呼んでいたことを知っている。男の社員は部下だろうが、笑っていた。え〜ぽちゃですか? とか、失礼な男の部下。
知ってる。
私のおっぱいが大きいことなんか、そんなことは知っている。
そしてあなたも『ぽちゃだよ』と笑っていた。
知っているよ。
お前のことを許さない。
結婚して初めてセックスをした時、夫は大きな胸を呆れた様子で掴んで『デッカいなあ』と言った。
デカい、というのは、女性の胸に果たして適切な言い方だろうか?
妻の胸に、デカいとは、みんな言うのだろうか。
褒め言葉として?
子どもは産まないことにした。
夫も、夫の両親も『あなたの体が第一』と言ってくれたことはありがたい。
この『ありがたい』の違和感に気づいたのは後々のことで、さらに『あなたの体が第一』というのも、そんなことは当たり前のことであって、どうして『産みたくない』という意思表示に対して『否定されないこと』に感謝しなくてはいけないのか、ぐるぐる考えているうちに30歳を越えた。
そうなれば社で交わされる会話もある程度決まってくる。
時代に配慮して『そういう時代じゃないけど』と枕詞を置き、子どものことを尋ねてくる人間はいつまでもいる。女が特にそうだ。つい先ほどまで『夫早く死ねばいいのに』だの『産後の恨みは忘れない』だの『ちょっとゴミを捨てたくらいで得意になっているバカ』だの『教えてくれないとわからないとかほざいている新卒よりも使えないゴミクソ』だの『あんなのの子どもを産んだことが情けない』だの、毒という毒をはいた口と同じ場所で『赤ちゃんかわいいよ』と教えてくれる。
赤ちゃんは、そりゃかわいいでしょう。
でもかわいいだけで産んで、それでどうするの。
子どもが生まれたことで夫のことも夫の両親のことも実の両親のことも、呪い殺さんばかりに嫌いになって罵詈雑言を吐いているのに。
子ども。
生きていようが死んでいようが着床しようがしまいが、その赤ん坊に肉体を提供するのはほかでもない私だというのに。
◇
乳がん検診の結果がすこぶる悪かった。
しこりがあった。
おかしいな、と思っていたのだ。ただ忙しくて放っておいた。だって、仕事も家事も、いくら分担したって結局は得意な方に偏る。
夏、薄着で乳を揺らしながら家事をするこちらを見て、夫は『ブラジャーしないの?』と聞いた。蒸れて肌荒れを起こしてしまう。皮膚科の薬はよく効くが、心配だからという名目で、夫は何度も『薬をぬれ』とか『薬飲め』とか、『ブラジャーしないと胸が垂れるよ』と言ってきた。
余計なお世話だ。
蝉が網戸に張り付いてワーワー鳴く、地獄が天から降るような日差しの夏。
胸が垂れたら、どうだというのだ。
こっちはこっちでそれなりに対処しているんだから、放っておいて。
そう思った。
ピルの処方の是非についても、中絶するには夫の同意がいることについても、あの自由の国で中絶が罪だとされたことについても、反吐が出た。
男の話ではないところに、いつでも男たちがしゃしゃり出てきて、余計なことをして、女が叩かれる。生理の理解もいまだに進まず、話題になったかと思えば気色の悪い漫画で、それを男が描いていて、その男は巨乳が好きでAVが好きで、娘がいて、何もかもひっくるめて世の中全部嫌になった。
放っておいてくれ。
私を放っておいて。
気持ちが悪い。
逃げるようにして働いた。
ブルドーザーみたいに働くね、ブルンブルンさせてさ。
上司がそう言った。なにをブルンブルンさせるのか言わなければいいとでも思っているのか、頭の悪いそのおっさんは、セクハラ淘汰ですぐ消えた。
体調はどんどん悪くなって、ついに隠しきれなくなった。
『ねえ、私、乳がんだって』
『えっ』
夫は真っ青になって、立ち上がって、私の肩に手を置いた。
ちょうど、どこぞの歌舞伎の立派なお家柄のバカボンボンの綺麗な奥さんが乳がんで亡くなった話をしていた時だから、ちょうどよかった。あの子どものうちのお嬢さん。あの子に遺伝しなければいい。遺伝するというならば、私のこの乳がんが、本当は、その子のかかるものだったならばいい。
『このあいだの健康診断。しこりが前からあって、病院行ったら乳がんだって。最近しんどいし、変だなあとは思ってたんだよね』
『ど、どう、どうするの。治療をしよう。入院……手術?』
『そうだね。全摘だね。乳首の近くにあるし、進行性だし』
夫が変な汗をかいて青くなったり白くなったり、落ち着きがない。
彼は言った。
『じゃあ、そうしよう。再建手術も保険が使えるんだから』
◇
お前の、体じゃ、ねえんだよ。
◇
自分の体のどこからそんなエネルギーが打ち湧いてきたのかは分からないが、私はもう人間の形ではなくなるくらいに怒り狂って、大柄な夫の胸ぐらを掴んでありとあらゆる罵詈雑言を吐きかけて怒鳴り散らしていた。
夫は困惑して、優しい人だから断じて手をあげたりもせず、激甚に、炎を吐いて、胸の中の雷鳴を瞳の中にバリバリと輝かせる私から離れようとはしなかった。
『お前の体じゃない!! 好き勝手言いやがって、お前、知っているんだぞ、ふざけてんじゃねえ、私のことを、陰でデブだってバカにしていただろ!!』
『していないよ! どうしたの? するわけないよ、大丈夫だよ、ごめんね』
『お前部下とクソチビメガネ猿と喋っていただろうが!!! 私の胸の話をしやがって、死ね! お前が死ね! お前となんか結婚するんじゃなかった! お前と結婚したって何にも幸せじゃなかった! 結婚したら、私の持ち主にでもなったつもりか? 私は犬か?! 豚か? デブなんだもんな!!! 死ね甲斐性なし! お前が癌で死ね!!! チンコでもタマでも癌になれ!! それで死ね!!!! 男なんか全員死ねよ! 死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねーーーーーーッ!!死ね!!!!』
人を殴ったことはこれが初めてだった。
女の腕力でも結構なダメージが出るようだが、さすがに気絶まではさせられない。ああそっか、痩せたのはこの胸に、大きな胸に隠れていた悪い細胞のせいだったのか。
だから力も出ないのか。
夫はよろよろと怯んだが、引かなかった。
『治そう、ね。一緒に病院に行こう。』
『いやだ』
嘲笑った顔が、困惑と悲しみに潤む瞳に写っていて凄絶だった。
私じゃないみたい。痩せて、目の下に、どうにも不気味な薄青の隈が浮かぶ女が笑っている。肩で息をしている。そりゃそうだ。苦しいんだもの。
『どうして。頑張ろうよ。治そう、一緒に長生きしようよ、ね』
笑わせやがる。
『頑張るのも、治すのも、生きるのも私だよ。お前じゃない。』
私の命はお前のものじゃない。
お前の苗字を首輪につけた雌の豚じゃない。
家事をして仕事をしてお前に乳をしゃぶらせるために生まれたんじゃない。
おっぱい。
私が女に生まれたせいで膨らんだ目に見える呪いはついに病にまでなった。
『よかったね、私、これで痩せられるよ! おっぱいも切り取っちゃえば、二度とデカ乳だの巨乳はバカそうだの言われないで済むよね。私より学歴や収入あるやつには言われたことないんだけどね。お前も言ってたんでしょ? どうせ、隠れて』
『言っていないよ。落ち着いて、どうしたの。元気でいて欲しいんだよ。愛してるよ。ね、頼むよ……病院へ行こう。俺、明日休みを取るから』
『診察日でもないのに病院に行ってどうするの? それも分からないの? 意味のない心配はしないで。いかに普段仕事しかしていないかがよくわかるよね。』
奥歯が興奮に鳴って噛み合わない。
『お望みどおり、ガリガリに痩せてやるから、お前は私が弱って死んでいくのをじっと見てろよ。離婚してもいいよ。乳がんの嫁を見捨てたクソ夫だって呼ばれるのも気分がいいでしょう』
『離婚なんかしないよ。愛してるよ。愛してる』
だから?
愛しているなら、私の命も、体も、どうこうできるとでも?
虫唾が走る。
いついかなるときも側にいて、必ず自分のもとに妻が帰ってくると思っているその図々しさたるや、人間の醜さの極地だと思う。
一生、私を待ってろ。
窓を開けていた。
涼しい秋の、夜の風が髪の毛に気持ちいい。
あっ! と夫が叫んでいるのも、うおおおおおお、と悲嘆して喚き、慌てふためいて、私の散らばった脳味噌や血をアスファルトごとかき集めている姿も見えた。あああ、だめだ、だめだめだめだめ、だめだよ、待ってくれ、だめだ。待って。泣き喚いている。助けを呼んでいる。私の、ここまでぐちゃぐちゃに砕けた頭になってもなお残っている病気の胸ごと抱きしめて。
(勝ったぞ……)
ざまあみろ。
私の体は、私のものだ。
ああでも、実は私、赤ちゃんほしかったの。
あなたの。
(了)
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