「死にたい」

昨日まで、僕は一人で「死にたい」と言っていた。実際に声を出して、そう言っていた。

「ああ〜死にたい死にたい」「うわ〜もう死にてえ」

授業で発表があり、使用する報告書類の作成に追われていたのだ。

思うように進まないことに焦り、不出来な書類を教員に見られることを想像しては胃が痛む。体に溜まったそのストレスを何とか逃すように、呻く。

発表は無事終わった。だからもう「死にたい」なんて思わないし、言わない。春の陽気に誘われてすっかりいい気分。

そもそも、死にたいと言っていた昨日の夜中だって、本当に死にたいとは微塵も思っていなかった。それはもっと身体的な反応として、増幅していくストレスからなんとか距離を取るために「こぼれ落ちた」だけだった。あるいはもっとコミュニケーションとしての表現っぽい、冗談めかした感じだ。何となくたまたま「死にたい」という言葉だった、というだけだ。おそらく「クソ」でも「いやだあ〜〜」でも「にゃにゃにゃにゃ〜ん」でもあり得たはずだ。それがたまたま「死にたい」だった。それだけだった。

ここに一つの教訓がないだろうか。つまり、何らかの心情的な言葉、しばしばやや過激なそうした言葉は、実は「気持ち」とは何の関係もない。それは身体的は「反応」に過ぎない。身体的「反応」としての「死にたい」。

こうも言えるかもしれない。「気持ち」とは「身体的反応」に過ぎない。環境や状況への反応こそが「気持ち」だと。だからその環境に居続けると、身体は同じ反応を繰り返す。つまりずっと「同じ気持ち」を持ち続けることになる。毎日締め切りがあれば、俺は毎晩机に向かって「死にたい〜」と言っていることだろう。するとその気持ちは刹那的なものからいつしか恒常的ものになる。反応に過ぎなかった気持ちが、習慣化され、「欲望」になる。「本当に死にたく」なる。

何かネガティブな感情が「反応」として表出したとき、それは体からの「サイン」である。ストレスがかなりかかってるぞ、というサイン。このままこれが続くとまずいぞ、という警告。それを受け取ったならば、することは一つ。環境を変える。間違っても「我慢」してはならない。逃げるのだ。「本当に死にたく」なる前に。


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