さけるチーズ

この世には「さけるチーズ」というチーズがある。美味しい。

さけるチーズと謳うだけあって、確かにさける。さけるさける。ああ美味しいな。さける上に美味しいなあ。

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さける。。。「さく」ではなく、さ「ける」。。。可能態。。。

そう、さけるチーズは、決して「さく」チーズではない。「さける」のだ。これはよく考えると不思議な表現ではないだろうか。

「さける」と言うからには、私たちは「チーズをさくことができるならそうしたい」という願望を持っていたのだろう。「ああ、ずっとさきたかったんだ、この時を待っていたんだ、ついに我々は「さける」んだ」と。

本当にそうだろうか?我々はチーズを「さきたい」と願ったことがかつて一度でもあっただろうか?

「さける」と可能態で謳われることで、私たちは何かそれが「果たされなかった願望が実現する」ことであると錯覚する。あたかも「さける」ことを「望んでいた」と錯覚する。そしてプレーン味とブラックペッパー味を一つずつ手に取る。

我々は目を覚まさなければならない。チーズを「さきたい」と願ったことなどただの一度もないと。「さける」ことが本当に価値あることなのかは、全く自明ではないということを。

近代とは、「可能性」の時代なのである。消費社会とは「可能性」を売っているのである。「今までできなかったことができるようになる」ことを売っているのが近代消費資本主義なのである。その象徴的な帰結が「さけるチーズ」である。

「何かが可能になったこと」それ自体が目的化しその実質的価値は空洞化する、それが消費社会であり、その表れがさけるチーズである。

私たちは、さけるチーズに現代の空虚を見ている。

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