育ちがいい

変なことを言うが、自分は本当に「育ちがいい」のだなと思う。それは経済的にではなく(経済的にも相対的には恵まれてるのは確かだが)、言葉の最高の意味で「甘やかしてくれた」ということ。その意味で育ちがいい。

印象的なことがある。それは、父が遅食いの俺に「ゆっくり食え」と言い続けたこと。小学生の頃も、中学の頃も、高校生になっても、大学生になっても、一度も急かすことなく、とにかく言い続けた。「ゆっくりいっぱい食え」。

やりたいことは自由にやらせ、自分の選択を尊重してくれた。親のイデオロギーを押し付けて何かを強制することはほとんどなかった。乗れない自転車を後ろから押すような存在。それが俺の両親だった。

こう書くと、とても「素晴らしい親」のように思えるが、しかしこういう親のあり方は、親の「最低限の倫理」であるはずだ。それは、親は勝手に子を産む、そういう存在だからである。

子は親を選べない。それ以前に「生まれる」ということを選択していない。子は生について根源的に受動的な存在であって、「無責任」になっていいのである。親は子を「勝手に」産んでいる。子の生についての最も、いや「唯一の」責任主体は「親」である。だから親が子の意志を尊重するのは当然だし、そのための最大の援助をするのも当然である。勝手に産んだのだからしかるべく育てる。あったりまえだのクラッカーである。古くない!いや古い!

巷では「育ててくれた親に感謝」規範が蔓延っている。とにかく親に感謝をさせたがる。育てて「くれた」?何を言っている。勝手に産んだのだから、しかるべく育てるのは、あったりまえじゃん。そのつもりで産むんじゃん。

こういう規範は、つまるところ、生の偶然性を隠蔽していると思う。親への感謝を規範にしている空間では、あたかも子が自ら望んで「意志的に」生まれたかのような存在になる。そして親の家庭に「居候」しているかのよう。そう、育てて「くれた」というレトリックは、受動的に、無意志的に生まれてきた「子」を、意志的に養ってもらおうとやってくる「居候」にすり替えるレトリックである。これは貧困や障害などの様々な偶然的社会的境遇を「自己責任化」する昨今のイデオロギーと地続きである。我々が社会的な不平等に対する公的分配を拒否できない理由は、生が根本的に偶然的だからである。

ところで、俺は自分の親にはめちゃめちゃ感謝している。しかしそれは「親に感謝すべきだから」しているのではない。もっと個別的な感情として感謝しているのだ。親に感謝なんぞ、という人もいるだろう。それでいいのだ。個別的にそれぞれの人が親に感謝をすることと、「一般に親という存在に子は感謝すべきだ」と言うこととは全く別のことである。規範化してはだめだ。

子の意志を尊重し、しかるべく援助をする。それが親の最低限の倫理である。そしてその最低限の倫理を守ること以外、親のやることはない。つまり最低限の倫理を守ること、それこそが親の最上級の達成である。その意味で自分の親は「最高の親」であると思う。




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