教習日記#12 『しっかり者』 2018/05/03

教習も第2段階。先日、応急救護を訓練した。この科目は3時間連続で受講せねばならない。長い。長いだけあり、いろいろな人間模様があった。

8人ほどが同時に受講。一人、やたらと「しっかり者感」を漂わせる女の子がいた。ハキハキとした受け答え、執拗にキビキビした動き。多分、看護学生(偏見)。そして多分、ダラダラ動く我々男子陣を軽蔑していた。そういう眼差しだった。

「自分がしっかりしていること」への自負と自己愛、そして「しっかりしていない者」への侮蔑を含んだ態度。

僕は彼女に懐かしさと嫌悪感を同時に感じていた。彼女の「しっかり者感」は、中学や高校で教室内の秩序に適応している「優等生的しっかり者(「権威としての先生」に従順な生徒)」であり、その意味で、懐かしかった。そしてその姿は、他でもない自分の過去の姿と重なった。だからこそ、嫌悪感を抱いた。

今の自分は、そういう過去の自分の振る舞いを嫌悪している。今はもう、学校の秩序がその根底になんら合理性を持たないことを知っているし、その無根拠な秩序を恣意的に押し付ける媒介(メディア)としての「先生」に権威を見出すこともない。だから、最低限の礼儀を除いて、特別にへりくだった態度を示したり、「先生」の期待するような態度を期待するようにとる必要はないと考えている。

しかし彼女は、「先生に礼儀正しく接すること」や「先生の望むような態度をとること」を価値基準として振舞っていた。そして投げられる「こんなこともできないの?」という視線。その視線を感じるから、苛立った。

違うんだ、僕はもう「そこ」にはいないんだよ、その段階を乗り越えたんだよ、あなたもこっちに来なよ、と。権威なんて無根拠なんだよ、こんな偉そうな教官の本質は何にも「えらく」ないんだよ、もっと「しっかりしなくて」いいんだよ、「テキトー」に接していいんだよ、そう言いたかった。

他方で一人、おちゃらけた青年がいた。教官にも隙あらば雑談を仕掛け、場を和ませる。人工呼吸をしながら「救急車いつ来るんすか?」と笑いを取る。僕には彼の振る舞いが輝いてみえた。

次は山岳教習。


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