桜がとっても綺麗

桜が咲いている。満開である。花見客で賑わう街。散っていく花びらに急かされるようにカメラのシャッターを押す人々。

そう、桜は、散る。

僕たちはどうして桜の花を、こんなにもありがたがるのだろうか。それは、桜がすぐに散るから、ではないだろうか。仮にもし、桜が一年中咲き続けていたら、こんなにも人を惹きつけるだろうか。きっとそうではない気がする。いやでも、もしかしたら一年中ありがたがるのかもしれない。わからない。

「桜がすぐに散る世界」を経験してきた我々にはもう、「桜が一年中咲き続ける世界」を純粋に想像することはできない。そこで生まれる仮想は、「すぐに散るはずの桜がもし散らないとしたら?」という、現実の経験を踏み台にしたものにならざるを得ないのである。考えたいのは、「もし桜が散らないものとしてしか存在しなかったら、我々はそれをありがたく思っていたのか」である。どうしたものか。

発想を変えてみよう。我々がすでに毎日接し続けているものについてどう感じているか、それを反省してみれば良いのである。そう、ウンコについて考えれば良いのである。ウンコ、またの名をウンチ、北関東の一部地域では「地蔵のほくろ」として祀られることもある、あれである。最後のは嘘である。なんとかついてきてほしい。

我々が毎日接するウンコ。人によっては2、3日に一回ということもあろうが、習慣的に万人が接する最たるものと考えて良いだろう。

我々はウンコをどう思っているだろうか。日々、そこから何を感じているだろうか。咲き誇る桜を見るように、ウンコを見ているだろうか。何かに急かされるようにシャッターをパシャパシャするだろうか。天気の良い日に酒や弁当を持ち寄り「ウンコ見」をするだろうか。

しない。全くしない。それが答えである。そう、毎日接するウンコに、我々は興奮しない。惹きつけられない。もし桜が一年中咲き続けたら、それは桜がウンコ同然になるということである。僕たちが日々、ウンコに向けている目と同じ目を桜に向ける世界、それが「桜が一年中咲き続ける世界」である。桜がウンコになる。

「今日も花びらが舞っていて鬱陶しい。さっさと水で洗い流しておくれ」「人んちの庭に勝手に花びらを落とすな。お前んちの桜が落とした花びらは飼い主が持ち帰れ」

今日も桜が綺麗。



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