概念ノート#1 ニーチェ「力への意志」

ニーチェによれば、人間の行為は全て「力への意志」によって動機付けられている。

例えば、上司とすれ違ったのに挨拶をしなかった後輩が、上司に「上司と会ったら挨拶ぐらいせんか。非常識なやつめ」と叱責される。ニーチェによれば、この上司が叱責をせずにはいられなかった本当の理由は、後輩の行為が常識はずれだったからではない。自分が後輩に無視されるという事態が、自分の「力」を軽んじられたことを意味するからだ。つまり、自分の尊厳が傷つけられて単に「悔しい」から怒っただけで、もっともらしく社会常識や道徳を持ち出すことは力への意志をごまかしているだけなのである。

このように、人間は常に自分の「力」を強くすることを求めており、その力が発揮、承認されれば喜んだり笑ったりし、そうでないと怒ったり悲しんだりする。これが「力への意志」の概要である。

先日、おれが信号無視をして歩道を渡ったとき、向かい側で信号を守っていた男性に「信号見えんか」と怒られた。非常に情けない経験である。それはさておき、このとき、おじさんは「信号無視が社会規範に反しているから」怒っているのではないだろうなあ、という直観があった。車通りが少ない夜の短い横断歩道で、「信号無視はいけないことだから」という理由で見ず知らずの人間に律儀に注意する人はあまり多くないように思われる。本当の理由は別にある。自分が信号を守っている目の前で平然と横断歩道を渡る大学生。この状況はおそらくおじさんにとってひどく侮辱された気分を抱いたことだろうと想像した。つまりおじさんが怒った理由は、信号無視をする小僧に自分がバカにされた気分になったからだ。そう考えていた。これはニーチェが「力への意志」という概念で言わんとすることと同じである。おれはおじさんの「力への意志」をくじいたのだ。だから怒られた。

しかしどうだろう、この「力への意志」概念は、ともすると循環的な構造を作り出していないか?どういうことか。

後輩に無視された上司は「常識はずれ」だと怒る。しかし本当は自分自身が軽んじられて悔しいから上司は怒っているのである。ニーチェはそう考えた。ではなぜ、上司は軽んじられたと考えるのだろうか?それは、上司たる自分が上司たる扱いを受けていないと感じたからに他ならない。常識的には本来挨拶をされる上司であるはずの自分が後輩に挨拶をされない、他ならぬその状況に上司は後輩からの侮辱を受け取ったのである。つまり、自分自身が軽んじられたと感じるのは、その後輩が実際に「常識はずれ」だったからなのである。言い換えれば、力への意志をくじく条件に「常識はずれの行為」は含まれているのであり、上司が後輩に「常識はずれ」だと叱責することは他ならぬ力への意志をくじかれたことを表明しただけなのでないだろうか

文献
「哲学用語図鑑」田中正人



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