日本のメダルは僕のメダル

オリンピックが盛り上がっている。この熱狂を見て、「私的所有」について考えてみたくなる。どういうことか。

オリンピックが始まると、必ず議論されることがある。それは「オリンピックの結果は、選手のものか、国のものか」である。

僕たちは選手をテレビの画面越しに応援する。多くの人が「日本人」を、また「日本」を応援する。そして、その人たちが勝つと喜ぶ。「よくやった」「日本の誇りだ」「日本、5個目のメダル!」

それに対して、こうツッコミが入る。「頑張ったのは選手であって、お前らは赤の他人。メダルを取ったのは選手であって国ではない。勘違いするな」

ごもっともだ。毎日血の滲むような練習を積んできたのは僕ではなく選手で、飛行機に乗って平昌に行ったのも選手で、緊張を乗り越え力を発揮したのも選手で、試合後櫻井翔からインタビューを受けたのも選手である。その始終に僕は一切関与していない。鼻をほじりながら、爪を切りながら、レトルト食品を乱暴に食べながら、19インチの画面から僕はそれを眺めていただけだ。

しかし、である。僕は、僕たちは、本当にこの出来事を「自分のこととして」受け取ってはいけないのだろうか。選手の達成した成果を「自分のものとして」受け取ってはいけないのだろうか。選手の頑張りにフリーライドしたい、そう言いたいのである。そう、そう言いたいのである!フリーライドしたい!させてよ!

個人の労働や仕事で得たものはその当人が所有すべきだ、という観念は「私的所有」の観念である。私的所有の観念は、近代資本主義の発達に欠かせない観念であると同時に、その資本主義の発展に従って浸透してきた観念である。

「自分のものは自分だけのもの」

私的所有の観念は、資本主義的合理性のもと受容され、また法的に整備されてきた観念であるが、それはつまりこの観念が全く「絶対的じゃない」ということである。私たちは私的所有を原理としない世界で生きることができるし、実際、人類はほとんどの時代をそういう世界で営んできた。喫煙所でタバコをシェアするような、フリマアプリを介してモノが次々に人々の間を流動していくような、共同性。

「自分のものが自分のものである」という社会通念は、近代の産物である。

話を戻す。オリンピックに舞い上がる人を「メダルは選手のものだから」と諭す人は、私的所有の原理を内面化していると言える。選手ががんばって獲得したメダルは、選手のものというわけだ。うん、よくわかる。

しかし僕たちはどうしようもなくテレビの前で熱くなるし、メダルを取れば嬉しいし、不本意な結果なら悔しい。この素朴な共鳴はつまり、私的所有の原理から離脱した現象である。選手の活躍を「共有」している。そしてそれは、一概に棄却されるべき態度ではない。それはそれとして「ありうる」立場である。選手の頑張りを自分のことのように喜ぶ、悔しがる。

むしろこうした「反私的所有」的な態度は、近代において絶対的な私的所有の観念を相対化するものとして、より創造的でありうる。
 自分が頑張らなくても、誰かが頑張っている。自分が果たせないことを誰かが果たしている。あるいは、誰かが成していないことを自分が成している。それを一つの「共有物」と捉えてしまう。「自己」の領域を拡張して、様々な「他者」と自己を同一化してしまう。「自分のために自分がやらなければ」という自己責任化が急進する現代社会において、それは一つの希望たりうるのではないだろうか。





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