音楽のように、学術を

音楽のように学術が存在することはできないか、ということをよく考える。

思うに、音楽は鑑賞者に応じた「2つのレイヤー」が存在する。レイヤーとは、まあ階層のことである。音楽には二つの「層」がある。

どういうことかというと、例えばプロが提供する音楽は、素人が聴いても「すげえいい曲!」と感じることができる。くるり好き!ミスチル好き!と言える。音符すら読めなくても。これが「一つ目のレイヤー」である。

そういう「素人的鑑賞」と同時に、音楽は「玄人向け」でありうる。というかそれを演奏している当人たちはゴリゴリのプロであり、そのプロたちで共有された文脈の中で自分たちの音楽を位置づけ、創作し、その業界内で高度に洗練された「言語体系」に身を浸している。だから、その文脈を、言語体系を共有する「玄人」の間では、例えば同じ曲が「素人的な鑑賞」とは全く違った次元で鑑賞され、評価されるのである。これが「2つ目のレイヤー」である。

同じ曲が、同じ演奏が、全く違った享受の仕方を同時に可能にする。高度に専門的な探求の成果が、同時に非専門家にも受け取ることができる余地を残す。これは音楽の原初性であり、間口の広さであるとも言える。

このような、「二重のレイヤー」を持った形で学術的営みを発信できないか、そのための「語り口」はどのようなものか、エンターテイメントであり批評的である学術的営みの発信とはどのようでありうるか。実際に、それを試みた場や人にどのようなものがあるか。それを調べ、考えたい。

#エッセイ #日記

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?