方言が「移る」ことについて

関西に来て数年が経つが、あまり関西弁を自分が使うことはない(ネイティブから快く思われないだろうからとなるべく使わないように努めているが、出てしまうことはある)。それでもしかし、心の声が関西弁になっていることは多い。心の声とは、考え事をしている時の脳内での独り言である。ああ、方言が「移っている」んだなとしみじみ思う。

そんな関西弁交じりの心の声を省みて気づくのが、自分がそのときの心情に最もフィットする言い回しを自ずと採用している、ということだ。

例えば、何かの拍子に「どないやねん」と心の中で発語したとき、それは「どないやねん」以外では言い換えできない心情を表現している。「どうなんだよ」ではダメなのだ。「どないやねん」でなければダメなのだ。

ここには、語学習得一般における重要な示唆がある。方言=他言語が”移る”とは、どのような事態だろうか。

「どないやねん」が「どうなんだよ」に言い換え不可能なように、「Excuse me」を「失礼します」と翻訳するのは”便宜的に”可能であるものの本来的には不可能なのではないだろうか。「Excuse me」は「Excuse me」でしか表現できない意味を含んでいるのである。

他言語を学ぶことは、おそらく一対一対応の「言い換え」を学ぶことではなく、それぞれの言語特有の粒度(解像度)での「認識(または表現)の形式」をインプットすることで、関西弁を習得することはいわば「関西的感受性」を着ぐるみのようにコスプレすることなんじゃないか。

「どないやねん」を習得することは、「どないやねん」としか言いようのない事態の認識を可能にすることである。

世間では「コミット」や「コンテクスト」といったカタカナ語を「意識高い」と揶揄する向きがあるが、これらの言葉にも日本語では言い換え不能な微細な意味が含まれていて、一度その語を習得した者にとっては「使わざるを得ない」表現なのだと思う。実際、「コミット」とか超便利だし。
 ではいろんな言語を学べばどんどん微細な感受性が身につくのかと言えば、そんな単純な話でもないんだろう、という気はする。

あと、関西に来た当初、自分の話し言葉を「標準語」ではなく「東京弁」とか「関東弁」と言われることにかなり違和感があったが、それは異性愛を「ノーマル」な性志向と考えるのと同じような愚かさがあると考えるようになった。なぜなら、「標準語」が「標準」であることになんら本来的な根拠はなく、それは歴史的あるいは政治的経緯によって「規定された」標準にすぎない。したがって今の「標準語」も一つの「訛り」であり、その意味で、「東京弁」と呼ぶ方がその実態を正確に表している。


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