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教習日記#6 【番外コラム】 「身体の不可逆性」と勉強、またその「儚さ」について

自動車教習に通い始めて1ヶ月ほどが経った。免許皆伝まではまだまだ道半ばだが、それでも教習を重ねるごとに自分のできることが増えていっている。できるわけがないと思っていた右左折も、いつのまにか習得した。

「できることが増える」ことは嬉しい。特にこの自動車教習は、毎回決められたタスクがあり、それをこなせばできることが確実に増え、原簿にスタンプが押されることでそれが承認される。ここまでわかりやすく自分の「成長」が可視化され実感できるプロセスは実生活にはそう無い。これはある種、初等中等教育的な学習プロセスであり、つまりこういう「学習」を昔はしょっちゅうやっていたのだ。体育で、漢字ドリルで、リコーダーで。それを久しぶりに僕は体験しているわけだ。

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「できないことが、できるようになる」こと。それは喜びだ。みんなそのために何かを日々努力しているはずだ。だがしかし、それは「儚く」もある。「寂しく」もある。そういう性質があるのではないか、そんなことを思ったのである。

僕は、1ヶ月前まではできなかった右左折ができるようになった。頭で「ここら辺でこのくらいハンドルを切ろう」なんて考えなくても、「なんとなく」で適切に曲がることができる。身体が右左折を「覚えた」のだ。

そしてそれはつまり、右左折を「身体が忘れられなくなった」ことを意味する。そう、僕はもう「右左折できなかったときの状態」に戻ることができないのだ。

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身体はどうしようもなく「不可逆」である。つまり「リセット」が効かない。一度何かを経験すれば、「それ以前」に戻ることは二度とできない。自転車の乗り方を一度覚えてしまえば、何年乗らなくても難なく運転できて「しまう」。乗れなかったあの頃の状態に戻ることはできない。転びたければ「わざと」転ばなければならない。
一度九九を覚えてしまえば、それを「忘れる」ことはできない。諳んじる口をいくら閉ざしても、僕たちは九九を忘れ「られない」。身体が覚えている。どうしようもなく不可逆な身体が、覚えている。

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自動車教習という学習プロセスの中で、僕は身体の不可逆性に向き合っている。身体が何かを「覚えてしまう」ことについて。これについて、僕は二つのことを考える。

一つは、この「身体の不可逆性」を積極的に利用してしまえばいい、ということだ。

つまり、身体はどうしようもなく「忘れない」のであれば、それを利用して、いろいろなことをとにかく雑多に経験「してしまう」ことを考えるのである。映画を観に行く、気になる講義を聞きに行く、行ってみたい場所に旅行する、思い切って留学してみる、、、。そうして様々な刺激を身体で受け取る。その蓄積が自己を豊かに形成する。(注意したいのは、今あげた例は全て「身体を伴った活動」であるということだ。実際に経験すればわかるが、例えば映画館での鑑賞体験とpcを使ったネットでの映画鑑賞は「全く別の経験」である。音響が振動として「物理的に」身体を揺さぶり、大画面が視覚的に迫力を与える。それはまさしく「身体的」な経験である。「物理的に身体的であること」が重要である。)
そうして経験された「身体的な出来事」の数々は、頭で「忘れて」しまっても、身体は「忘れ」ない。それらは「傷」のように、身体のどこかに残る。
あらゆるエンターテイメントが「情報」としてディスプレイの中で平面化されている現代において、「生の」体験の価値は、おそらくここにある。これはまた追って検討したい。


そしてもう一つは、身体の不可逆性がもたらす「儚さ」についてである。先ほどから身体が様々を覚えることについて「覚えてしまう」という、ややもするとそれが避けるべきことかのような表現を繰り返していたが、それはこの「儚さ」に関係している。

僕たちは何かをできるようになりたいと思っている。または、何かをできるようになることを素晴らしく価値のあることだと思っている。何かを「できない」事態は望ましくなく、「できる」ことが多いことが素晴らしい。

しかしどうだろう。身体は、一度できるようになってしまえば「二度と」できなかったあの頃に戻れない。僕はもう「右左折をできなかったあの頃」に戻れない。それはとても儚く、エモーショナルな出来事に思える。

それは世界の「喪失」である。「できなかったとき」には、その時にしか見ることのできない世界があった。「できないとき」にしか想像できない世界があった。「できないとき」にしか考えられないことがあった。そして、もうそこに立ち戻ることはできない。

僕たちは何かが「できるようになる」たびに、ある世界を「失っている」のである。「できるようになる」とは何かを「獲得」する過程ではなく、世界の「喪失」の過程である。僕たちは「できたくて」しょうがない。「できないときの世界」を捨てたくてしょうがない。しかしその世界に戻ることができないことをよく考えると、それがどんな世界だったか、少し名残惜しく、思いを馳せたくはならないだろうか。

右左折ができなかった頃の世界は、どんなだったかな。


#キー概念
記憶と忘却、身体と脳






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