国宝展

京都国立博物館で、国宝展をみた。

雪舟の水墨画が、輪郭線をめちゃめちゃはっきりと描いていることに驚いた。水墨画のイメージに反し、「境界」が全く曖昧じゃない。だから写実的ではなくむしろコミカルな印象。雪舟はコミカル。

「古今和歌集」の実物を見た。古今和歌集の「実物」である。ピンとくる?国語の教科書にさんざ出てきた古今和歌集。の実物。古今和歌集そのもの。それが目の前にあるという、リアリティのなさ。そりゃ実物はあるに決まってるのだが、それを目の当たりにすると当惑する。そんな気持ち分かるでしょう?

地獄絵図。鎌倉時代、人は「末法の世」を恐れ救いを求めたというが、なぜその末法の世を、地獄を描いたのだろう。恐怖が想像力を生む、というテキストがあったが、恐怖の対象を詳細に描いてどうするつもりだったのか。それで救われるものがあるのだろうか。描き手は恐怖を煽る側だったのだろうか。

国宝を観ながら年金の話をする中年がいた。国宝の前でする話だろうか。

国宝を観ながら見つめ合い、手を絡ませ合いいちゃつくカップルがいた。国宝の前ぐらい我慢できないか。

学芸員用の椅子でうたた寝をしているおばさんがいた。なんでもありか、ここは。

博物館は疲れる。歩き回り、立ち止まり、また歩き回る。スポーツだ。その意味で博物館は、多様な身体のありようがある中で排他的である。健康な肉体を持った人間のアドバンテージがでかい。博物館のこの肉体への依存をどうにかできないか。多様な身体を受け止められる博物館。座っている目の前をモノが横切るとか、考えた。
#エッセイ
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