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ふたつのギフテッド

 さて本日は本の紹介・感想にかこつけて,最近時々話題にしている.「凡庸な優秀さ」についてのお話です.
 映画や,最近だとマンガやそのドラマ化などで話題の「ギフテッド(gifted)」ですが,今回紹介するのはこちらの書籍.

 連載中にも何度か目にしたことがある,朝日新聞の連載をもとにした書籍.読後第一の感想は……「二人の著者(記者)は正直な人だな」です.その理由は後程.

ギフテッドとは

 ギフテッド(gifted)という単語そのものは「与えられた人」...…ここから「天賦の才能を神からgiftされた人」という意味になる.talentedと似てるけど,talentedはスポーツや芸術・表現等の分野での特異な才能/giftedは知的な才能について用いられる傾向があるそうな――ただし,上の連載・書籍ではやや広い定義として,

・並外れた才能ゆえに高い実績をあげることが可能な子ども
・実際目に見えて優れた成果をあげている子どもだけでなく、潜在的な素質のある子ども も含む
・才能の領域は、知的能力全般、特定の学問領域、創造的思考や生産的思考、リーダーシップ、音楽、芸術、芸能、スポーツに及ぶ
・有資格の専門家(教師、医師、臨床心理士、芸術やスポーツの専門家等)により判定された子ども

 同書(p.92)

を紹介しています.
 ここで問題がその「並外れた」の度合いです.唯一絶対の定義があるわけではないが……比較的数値化が容易な知的能力については,

・IQ(知能指数)120以上 または IQ130以上

がひとつの目安となるそうだ.各国でのギフテッドの認定基準としてもIQ130ほどを判断基準とする例があるみたい.

 ここで,少なからぬ読者は戸惑ってしまう.IQ120以上の人は全人口の10%,IQ130以上の人は2.5%...優秀だと思うけど,ちょっとイメージと違わない?

※IQテストは平均100,標準偏差15になるように設計されるので,IQ130=偏差値70みたいなもんと換算すると日本人には理解しやすいと思われ^^

あなたはどっちのギフテッド?

 映画や漫画などからイメージされるギフテッドってせめて数万人に一人,またはひと世代に一人の天才……的なイメージじゃない?

 しかし,同書ではIQ120-130くらいという目安に従って語る角谷詩織(上越教育大教授)の

「小学校に入る前に外国語が話せるようになる、相対性理論を完全に理解する、など超人的な才能を見せる子どもがギフテッドだと誤解されているように感じます」

同書p97 

というギフテッド感に従った(と読める)記述が多い.つまりは数万人,数百万人に一人の天才ではなく,人口の数%というイメージでギフテッドを捉えていると解釈できる.
 その一方で「あとがき」では

ギフテッドは特異な才能があっても、決して特異な存在ではない、ということだ。 それぞれに得意なことがあり、苦手なことがあり、学び成長したいと思っている一人の人間である。

同書p218

との結びが示される.
 これは(そのままでは)少々無理があるまとめだろう.言葉に関する感覚はひとそれぞれであるが,人口の2.5%(IQ120以上となると10%!)を「特異」と表現するのにはかなりの違和感がある.IQ120-130,またはIQに限定せずとも人口の数%は存在する才能を「特異」といえるんだろうか.個人的な単語イメージから考えると,

ギフテッドはそこそこ優秀であっても,決して特異な存在ではない……(そりゃそうだ)

ということになるんじゃなかろうか.
 一方で,ギフテッドを「特異な才能がある」という前提を保つならば...ギフテッドの定義としては「小学校に入る前に外国語が話せるようになる、相対性理論を完全に理解する、など超人的な才能を見せる子ども」の方が妥当ではないかな.

迷いのままに

 私の感想にすぎないけど,この違和感を最後まで大切にしながら,筆者(担当記者)であるふたりは連載を進め,書籍としてまとめたんじゃないかな.これが冒頭の感想「筆者は正直者だな...…」の理由.

ギフテッドの苦悩を語る際には,

・数万人,数百万人にひとりの特異な才能をもつ人が感じる苦悩の問題
・数%のそれなりに優秀な人の感じる苦悩の問題

いずれを取り扱ってるのかに注意しなければならないと思うんだけど……同書では章によって,取り扱われるギフテッドの種類が異なっている.ここに筆者たちのギフテッドに関する迷いが残っているように感じられるんだ.
 その一方で,(論文ではない)インタビュー集・エッセイとしてはこの筆者たちの迷いにこそギフテッドを語る困難が表現されていると評価したい.

特異な才能と凡庸な優秀さ

 まずは・・・数万人・数百万人にひとりの特異な才能を世間が理解できない問題/理解してもらえないことの苦悩について.このような偉才・異才を世に埋もれさせてしまうのは社会的な損失でしょう.社会はこの特異な才能を理解するように努めていく必要がある.

 その一方で,クラス1や学年1の才能をクラスのみんなが理解できない問題/理解してもらえないことの苦悩については,教員や学級内での相互理解を深めることの必要性に加え……もうひとつの重要な対策を求められる.

 発達段階にあわせて「優秀だけど特異な才能ってほどじゃないよ」ということをやんわりと伝え,本人がそれを理解する/感じるというステップだ.

 読者の中に「学校はつまらないけど,進学塾は楽しかった」という感想をお持ちの方があるかもしれない.クラス1・学年1の秀才にとって,進学塾は自分がフツー/その他大勢の一人でいられる場所だ.塾でも一番だったとしても……2位との差は小学校ほど大きくない.これが「学校はつまらないけど,進学塾は楽しい」の一つの理由でもあろう.

 だったら(IQ120-130を基準とした)ギフテッドの苦悩を解決するためには私立に入れる/進学塾に行くが正解? また公的な支援としては公立校を進度別クラス編成にするとか……?

 それは問題の先送りでしかない.そしてさらに問題を深刻化させる可能性すらある.
 だって……IQ120-130,偏差値70,クラスで1番成績が良いetc.ってそんなにたいそうな能力じゃないんだもん.せいぜい一流大学に入れるとか,結構いい資格試験受かりそうとか……そんくらいなんよ.
 いや全然凄いことですよ.だけど,このくらいの才能の持ち主は才能(例えばペーパーテストの成績めっちゃいいなど)だけでは食っていけないんよ.どこかで自分のフツーさを認識し,一方でちょっとだけ人より優秀であることのアドバンテージを活かす方法を考えなきゃいけない.

 知能指数140(就学前だけど),四谷大塚中野校舎(国立1組じゃないけど),海城中高(開成落ちたけど),東大出身(主席じゃないけど)で元進学塾講師(SAPIXじゃないけど)の私が言うんだから間違いない(テキトー)

凡庸さを知り・優秀さを活かす

 特異な才能の持ち主以外は,どこかの段階で「社会にとって特別な存在ではない自分」に気づかないといけない.

 これは何も(IQ120-130を基準とした)ギフテッド特有の悩みではありません.「特別な自分」と「そうでもない自分」の葛藤は思春期特有の悩みです.この苦悩を通り抜けて「社会にとって特別ではない」が,「特定の誰か(家族・恋人・友人)にとって特別な自分」になろうとするわけ.

※この葛藤を「大人」が振り返って(語源よりもかなり拡張された意味での)中二病と呼ぶわけです^^

 (IQ120-130を基準とした)ギフテッドの苦悩を特別扱いしすぎると,この凡庸に優秀な自分を受容することへの準備が出来ないまま成人しなければならなくなるんじゃないかな.
 逆に,彼らを(同じくらいにそこそこ優秀な)友人ばかりの環境におくことは,自分より情報の処理が遅い/言語の理解力が低い人がたくさんいる……つまりは自分がそこそこ優秀であることを認識できなくしてしまうんじゃないだろうか.

 このようにまとめると,やはり今一度「ギフテッド」の定義問題と本書での迷いに立ち戻ることになる.
 凡庸な優秀さに囚われる人を減らそうとすると,特異に非凡な才能を損ねる.一方で,特異に非凡な才能を育てるために特別な扱いを行おうとすると,それに巻き込まれて凡庸な優秀さの罠から抜け出せない人を増やしてしまう.
 (同書の定義する)ギフテッドの課題は「ギフテッドとそうではない人」間の問題である以上に「特異な非凡さと凡庸な優秀さ」の間の問題なのではないだろうか.

おまけ1

 同書では,IQ130-140くらいの児童(と元児童)が発達障害と誤解・混同されやすいことの問題点なども言及されており,これは非常に参考になった.要は学校お勉強に集中できない(すぐわかっちゃうから)が注意欠如と間違えられやすいというわけ.
 私は子どもの頃から年に数回だけど全て(鞄や財布,ケータイなどなど)の荷物を忘れて帰るor出かけることがある.仕事先がタクシーなどの返りの足を用意してくれたために途中で気づかず,さらに運悪く家に誰もおらず途方に暮れたことも.細かい忘れ物は……子どもの頃からいままで忘れ物をしなかった日はほぼない.今日もゲラ校正をするつもりで大学来たけど,ゲラ忘れたのでこの文章を書いている.あと,子どもの頃から時々今自分が何をしているのかわからなくなる(哲学的な意味ではなく,駅に行ってみて何で駅に来たのかを忘れるなど).

 この調子なので,子どもだった当時,発達障害等の言葉が普及していたら完全に何らかの病気・障がいとみなされていたんじゃないかな.されていた方がよかったという考え方もあると思うけど,私はいまそれなり楽しく過ごしているので,昭和のいい加減な時代に育って良かったように感じることであるよ.

おまけ2

 いんたーねっとは,SNSは時に大人を童心(中二心)を取り戻させる.日々の仕事の中で,特別さと凡庸さに葛藤する日がたまにあるのはいいと思うけど……いい年こいて中二の,高二の,大二の自分に飲み込まれちゃいけないぜ.
 ということで凡庸な優秀さに関するエントリを宣伝しときます(一番上のは前編公開版)

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