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現代アートと身体、知覚

去年くらいから、ちょくちょく通っている由比ガ浜通りにあるGallery Pictorのトークイベント「アーティストのまなざしから社会を考える」に昨日行ってきた。Gallery Pictorのオーナーである中島さんは、もともとサステナビリティのコンサルタントをされていて、私自身ビジネスの世界だけでサステナビリティの仕事をしていくことに少し限界を感じたりして、少し軸足をビジネス以外にも移したいと思っていた時に中島さんのことを知り、ギャラリーに足を運んだのが最初のきっかけだった。

昨日のトークイベントでは、画家の畑山太志さんのお話を聞かせて頂いたが、正直、研究者のように理論的で客観的であることにびっくりした。まだ畑山さんの作品は見たことがないのだけれど、人の持つ身体的な知覚や自然の営みなどをテーマに作品を制作されているようだった。畑山さんのお話だったり、その後の質問への返答を聞いていて、自分の感覚を掘り下げていくことから生まれてくるものを作品に昇華させるときに、作品と自分との関係性だけで完結していることがすごいなと思った。芸術家であればだれでも当たり前かもしれないけれど、青沼さんも言われていた「承認欲求の強い時代」にあって、つまりは不特定多数の「いいね」とか「フォロワー数」が影響力を与えるとされる今の世の中において、そのような他社の目線を意に介することなく、淡々と自己の知覚や身体性と向き合い、そこから生み出されたものを作品として世の中に示す、その潔さに正直驚いた。同じ時代に生きていて、そんな風に生きれることに衝撃を受けて、なんだか昨日は夜あまり眠れなかった。

今日は天気も悪かったので、部屋の大掃除と料理をして1日が終わったけれど、掃除をしながら、料理をしながら、昨日の畑山さんの言葉を咀嚼していた。身体性を取り戻そうとする試みは、益子にあるギャラリー「Startnet」の創業者の馬場さんのネイティブ・インディアンの成人の儀式の話を思い出させる。つまり、成人となるために森へ連れられて、居心地の良い場所を見つけたら下山をするという話。自分の身体を通じて物事を判断することこそが、成人になるということ。知識や情報ではなく。畑山さんの言葉を完全には理解できていないけれど、この消化不良を敢えて大事にしようと思う。ある時、ふと理解できるかもしれないと思う。まるで難解な小説を読んだ後の読後感のようだ。

天気が悪かったので、クッキーを作ってみる。


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