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第五十五話 和装のティラノサウルス


「この家も、もう二十年近く経つのか」
建売の物件ではなく、建築士に設計を依頼して、思い通りに建てた家だ。
こだわったのは密閉性。一切の音が外に漏れることがない密閉性を実現した。サッシは二重ガラスにしてあるし、各部屋はそれぞれ独立していて、高気密、高断熱の密閉性の高いユニットになっている。
水が浸入することもなければ内側から漏れる心配もない。どうしてそんな所に拘ったかと云うと、外の埃や排気ガスの臭い、騒音を徹底的に締め出したかったからだ。都会で暮らすには、これくらい用心しておかなくてはならない。なにしろ汚染された空気を毎日吸い続けていたら、遠からず身体が変調を来たすのは火を見るよりも明らかだ。なによりもこの汚れた大気の下で毎日を過ごさなくてはならないという精神的な苦痛に耐えられない。
家も建ててから二十年近く経つと、いくら良い材料を使って頑健に作ったつもりでも、そこここに痛みが出てくる。
まず水回りに不具合が生じた。トイレ、浴室、台所の水道の栓が緩くなったのか、パッキンが劣化したのか、水が漏れるようになった。気にするほど酷くはなかったが、一晩で小さなボールに水が一杯になった。
そろそろ修理を、と思っていた矢先に辞令が出た。九州支社への赴任である。二人の子どももそれぞれ中学、高校に進学するタイミングだったので、家族揃って赴任することにした。
それから二年。本社の人事部から辞令が来て、帰京することになった。久しぶりの我が家である。
鍵を開けて目に飛び込んできたのは、水槽と化した台所と風呂場とトイレだった。水道の元栓を閉めずに赴任してしまったのだ。少しずつ溜った水滴が家を満たしていた。今更気づいても、もう手遅れだ。どうやら各部屋をそれぞれのブロックにした水族館状態になってしまっているらしい。
女房と子どもは気味悪がって入ろうともしない。これでは住むどころの騒ぎではない。女房と子どもを実家に預け、まず室内がどうなっているのか調べることにした。
玄関には水は流れてきていない。和室の居間も大丈夫のようだ。問題は密閉性を高めた水回りの部屋だ。
「まずはトイレからだ」
しかし、ドアが開かない。力一杯押してもびくともしない。かなり大きな水圧がかかっているのだろう。仕方がないので、庭に出て外から確認することにした。庭には夏草が伸び放題に伸びていた。セイタカアワダチソウに加えてヒメジョーオンも繁茂しているので、さながらジャングル状態だ。夏草に足を取られながらも家の中を覗き込んでみた。すると、窓越しに妙なものが蠢いている。口の長いゲジゲジのようなものが水中を優雅に泳いでいる。カンブリア紀の甲殻綱鰓脚亜綱無甲目のオパビニアのようだ。
次に裏手に廻って台所を覗いてみた。
ここも水圧でドアは開かないので、廊下の外からガラス越しに観ることにした。先ほどのゲジゲジとは違って足の長いムカデのようなものが泳いでいる。これもどうやらカンブリア紀の環形動物門多毛類鰓曳動物門ハルキゲニア属のハルキゲニアのようだ。どちらが天でどちらが地か判らない奇妙な形をしている。
そしていよいよ浴室を確かめることにした。
浴室の窓ガラスは大きくとってあるので、中の様子はトイレや台所とは比べものにならないほどはっきりと看て取れる。
甲殻綱鰓脚亜綱背甲目のアノマロカリスがくちばしのあるゴキブリのような風情で泳ぎ回っている。
窓越しに眺めていると、アノマロカリスが俊敏な動きで踵を返した。何か餌になる獲物でも見つけたのだろうか。アノマロカリスが去った後の床にはウミユリのようなものが天井近くまで伸びている。
「これだけの背丈のウミユリはカンブリア紀でなければ棲息していない筈だが・・・」
ということは、私たち家族が留守にしている間にこの家は五億年前にタイムスリップしてしまったことになるのか。果たしてタイムスリップしているのは家の中だけなのだろうか。
ひょっとして、家の外はジュラ紀にタイムスリップしているなどと云うことにはなっていないか。振り返るとそこにティラノサウルスがぬっと首を出してきそうな気がして、私は振り向くことができなかった。
佇んでいると、カサコソカサコソ夏草を分けて近づく気配がした。私はその音の主を確かめるのが怖かった。できれば、ある程度近づいたところで、ふっと消えてくれればと願っていた。しかし音は更に近づき、もう確かめずにはいられない距離にまで迫っていた。
振り向くと、そこに居たのはジュラ紀のティラノサウルスではなく、妙齢の和装の婦人だった。
私はその婦人に見覚えは無かった。
だが、その婦人は私とは知己ではなかったが、我が家とは浅からぬ縁があるようだった。それが証拠に、通りからは判りにくい裏の塀の扉を探り当てて、庭に入り込んでいるのだ。
「失礼ですが、こちらのお宅の御主人様でいらっしゃいますか」とその婦人はよく通る声で訊いてきた。
「ええ、そうですが、あなたは・・・」
私の返事が終わるのも待たず、婦人は「誠に申し訳ないのですが、実は私、若い頃に患ったある病の後遺症で、狂水症に長らく悩まされております。こちら様のお宅の前をたまたま通りかかった際に水音を耳にしまして、なに、普通の方なら聞き逃すような僅かな水音なのですが、そこは長年患って来た狂水症による影響で、ほんの些細な水の音でも神経に障るのです。それで無礼を承知の上で、こうしてお庭にお邪魔して、度々中を覗かせていただいているのです。そうしましたら、この大量の水で、私は思わず発狂しそうになりました」と、一気にまくし立てた。
私は婦人の狂水症の話の唐突さに面食らった。
その婦人は続けて、「それから、この道を通らなければよいものを、どうしても外出となると足がこちらを向いてしまいます。そして、近くまで来ると、魅入られたようにお宅の中の水が私を強く、強く、それは例えようもなく強く、私を引き付けるのです。そして、その後に襲ってくる苦痛が判っているにも拘らず、お宅の中を覗き込んでしまうのです。そうです。まったくの怖いもの見たさなのです。よそ様のお宅を覗き込むなどは非礼、いや不法侵入と云う犯罪になるのも重々承知の上で、いつもこちらに足を踏み入れてしまうのです」と語った。
私はこの婦人から許諾の声を掛けられたわけでもなく、もちろん許可したわけでもない。確かに不法侵入なのだ。だが、狂水症に苦しんでいる婦人を前にそれを咎めても詮無いことだ。
そこで私は「いや、大した家じゃありませんから、そんなに気にされなくても結構ですよ」と、無理に相好を崩しながら返事をした。すると婦人ははにかんだような笑いを浮かべ、持ってきた麻袋からハンマーを取り出すと、我が家の窓ガラスを叩き割ろうとした。私は慌てて婦人の背後から羽交い絞めにして止めようとした。
しかし、婦人は意外に敏捷だった。ひらりと体をかわすと、私の脳天目掛けてそのハンマーを打ち下ろしたのだった。


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