「子育て」したい理由

 イーズカが子育てで最もやりたいのは「教育」である。
 「日々是プレゼン」なので、退屈させるような授業はゼッタイにしない。「新しい事を知る喜び」「知らなかった論理を知る感動」を伝えたい。
 そして「読むこと」と「書くこと」を徹底的に教える。知性を鍛えるのに読書は不可欠である。あるまとまった論理や思考法は本からしか学べない。これはある種の肉体労働である。

 どんなに雄弁な人間も、書けない人間は無力である。直接に言葉で語りかけられる人数は限られている。文章化しなくては、多くの人にも、後世にも伝えられない。
 何よりも「文章で語れることの豊かさ」が身につかない。人間は「言葉」を共有することで、現代の文明を達成した。その言葉を文字として書き記すことは、「言葉のチカラ」を無限に伸ばしてくれる。

 絵や、彫刻や、写真や、音楽や、映像そして建築物、表現手段は数多くある。それらの豊かさをさらに広げるのが文章である。優れた芸術家は文章も素晴らしい。

 この「文章力」は、イーズカは「作文力」と呼んでいるが、すべての表現の基礎体力である。
 この能力は「読む」ことによってしか鍛えられない。歴史の荒波を乗り越えて残って来た「読むべき本」が膨大にある。刑務所の中ですら読書は可能である。

 すべての知識は文字によって語られている。人の言葉を拝借しても、じぶんの言葉にはならない。「読んで、書く」ことが、知識と論理とレトリックを血肉化していく。

 教育の基本は、「自らのチカラで、学べるようになる」ことだ。学べるようになれば、考えることが可能になる。

 現在の日本の公教育は病んでいる。小学生に英語を教え、コンピュータのプログラミングの基礎を教え、高校では「論理国語」と「文学国語」に分離するという。そして歴史は教えない。
 腐り切っている。現場の教師が創意工夫して悪戦苦闘していることは知っているが、文科省の方針は「植民地の民に学ばせたい、奴隷の知識」である。

 イーズカは時間が許せば、すべてを自分で教えたい。友人との出会いと関係性があるので、学校には行かせるが、教育内容は補わなくてはならない。

 だいたい、日本国内でしか通用しない人間など作りたくない。日本の没落と衰退は、もはや避けようがない。
 ここまで知性も教養も無い連中が、言葉の価値を極限まで下落させて、倫理性のカケラもなく宗主国アメリカの下僕になっている。

 日本国民は、そんな現状を「良し」としている。サイテーの民族である。明治維新以来、日本は「恥知らず国家」の道を邁進してきた。

 少なくとも我が子には、こんな国に甘んじてほしくない。「ダメだ」と見切ったら、世界に旅立って行く人間に育てたい。

 イーズカは「謙虚」という言葉が大キライである。自信過剰を制御する程度の意味はある。そんなことは内的な姿勢であって、社会が説教すべき題目ではない。

 「謙虚なはずの日本人」が政治を私物化し、利権を身内のみで独占し、公文書を改竄し、良心的な人間を自殺にまで追い込んでいる。
 それを再調査せよとの申し出に、「すでに終わった問題だ」とうそぶいている。

 日本など、滅びて当然の国家に成り果てている。こんな国に育つ以上、「唾を吐きつけて、後ろ足で砂をかける」パワーのある人間に育てないと不幸である。

 こんな国でサラリーマンにしか成れないのなら、国家に奴隷を提供しているだけである。

 だからイーズカは、自分で「子育て」がしたい。


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