文科省の具体的な罪状

 最近、イーズカ自身の大学時代の「学び」について書いてきた。実に恵まれた環境で育ってきたと思う。
 片や文科省を徹底的にコキオロシてきた。文科省の役人など、クズとしか思わない。しかし、文科省も現在の教育システムも、そう簡単には破壊できない。そんなことは分かっている。
 いま批判が集中しているのが、高校の現代国語を「論理国語」と「文学国語」に分けて、選択制にするという制度改革だ。
 イーズカもこの提案を読んで、唖然とした。狂気の沙汰である。
 言語というものや、文章というものに「これほど間違った認識が幅を利かせている」という現実を突き付けられた。
 内田樹は、「論理国語など、植民地を経営する宗主国の発想だ。植民地の民に自分たちの文学作品を批評できるような知性は持ってほしくない。自分たちが命令として下す契約書の意味だけは理解してほしい。アメリカの植民地である日本で、なぜ支配される側が、こんな隷属的な国語教育を進めるのだ。」と怒り狂っていた。
 脳科学者の茂木健一郎も「ここまで質の低い論理がまかり通るのか」と見下げ果てていた。
 イーズカもまったく同感である。
 明治維新以降、文部省は「西洋列強に追いつけ」と日本文化を破壊し続けて来た。その中でも、この「論理国語」という施策ほど屈辱的なモノはない。
 小学生に英語を習わせたり、コンピュータ教育を導入したり、ホントに文部役人のアタマの中を覗いてみたい。ゴミしか詰まっていない。
 母国語が習得できていない小学生に英語を教えてどうする。小学生にプログラミングを教えてどうなる。まずは「マトモな文章が書ける」ようにしろ。それが教育の基本である。
 コンピューター・リテラシーなど専門のスタッフ部門に任せればよい。あんな技術は語学ほどまの有用性も無い、奴隷の作業である。
 大学教員自身が、そんなデスクワーカーの奴隷根性しか持っていない。愚かである。こんなバカが教員をやっているので、日本の教育は崩壊の危機にある。
 イーズカは大学教育の現場に参加してみて、呆れ果てた。バカしか居ない。
 だから文部官僚がつけ上がる。
 むかし、東大の教官の話を聞いたことがある。法律の教官で、論理解釈が厳密で有名だったらしい。
 彼がある時、学生に質問した。「橋のたもとで投身自殺をしようとしている人が居る。アナタは何をすべきか?」。学生は答えられない。
 「直ちに駆け寄って、助けるのです。」「まず人間としてすべきことを為すのです。法律解釈など、その後だ」と全員に語りかけたという。
 こういう人を教官と呼ぶのだろう、と思った。
 現在の大学教員で、このような気骨ある人間を見たことが無い。あまりに不毛な教育環境である。
 個人的には、優秀で面白い人間を何人か知っているが、発想の根本が為っていない。「本気で教育する気があるのか」と問い詰めたくなる。それくらいヒドイ。
 日本社会がここまでの衰退に沈んだのには、訳がある。すべてが価値観を見失い、崩れかけている。
 哲学の無い奴が、教育などするべきではない。切れば赤い血が流れる生身の人間を教えるのだ。まずは自分の姿勢を改めるべきである。
 大学教育の現場から追われた身であるが、そうであるが故に、心底そう思う。

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