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勤勉さと非開放性 ~日本を「働き方後進国」にしているもの~

おとといの夜、令三社さんのイベント、「【著者登壇!】『コーポレート・レベルズ』出版記念ウェビナー」に参加しました。

最後の質疑応答コーナーで、マネジメントのやり方や働き方の国際比較といった質問が出ていました。著者であり登壇者のモーア氏からは、マネジメントのスタイルに大差はないとした上で、日本は組織変化に取り組めてない企業が圧倒的に多いという指摘がありました。さらに、意思決定が遅く、変化対応に弱いというのが日本企業の特徴と言及がありました。

この国際比較はまさに図星なのではないでしょうか。少なくとも私にはそのように感じられました。

個人的な見解ですが、組織構造の変化や多様な働き方にチャレンジしている企業は、北欧を中心としたヨーロッパに圧倒的に多く、それに次ぐのが、南米や中国、APAC。そして、アメリカ、日本、韓国あたりが最も遅れていると感じています。もちろん、日本にもサイボウズや伊那食品工業などメディアに取り上げられることの多い、多様な働き方を取り入れている企業はたくさんありますが、いまは中小やベンチャーが中心で、しかもそれらの企業は、多くの人に、必ず、「異端」という目で見られています。

なぜ、「日本は組織変化に取り組めてない企業が圧倒的に多い」と言われて、ぐうの音さえも出せなかったのでしょうか。私は職場における価値の偏りや潜在的な多様性の欠如が原因しているのではないかと思っています。全体性(ホールネス)が、「心理的安全性」という言葉でくくられて、それで満足している程度の意識レベルでは変化対応はまったくできないと思っています。

OST(オープン・スペース・テクノロジー)というワークショップのスタイルをご存知でしょうか?あらかじめ複数の部屋が用意され、その部屋ごとにテーマ設定があります。参加者は自身の興味・関心に従って、自由に部屋を飛び回れる仕組みになっています。すると、皆が価値が高いと感じているテーマを扱った部屋には人が集まりホットな場が形成され、そうでない部屋には人が集まらず、そのテーマも自然に淘汰されていきます。そのワークショップでは2つの振る舞いが称賛の対象となります。一つが「蜂」といって各部屋を飛び回る人です。各部屋の話題を持ち運ぶなどして、場の活性に貢献します。もう一つが、「蝶」と呼ばれる人ですが、どこかの部屋にはいることもなく、お茶を飲んだりしてゆっくりしている人のことを指してそう呼びます。「蜂」が推奨されるのは直感的に理解できると思います。その一方、「蝶」が存在し、それが認められることで、参加者の主体性が担保されます。それによって、場の心理的安全性も確保されます。「蝶」の役もいて、「蜂」の役もいて、それ以外の人もいて、全体が成り立っていることが分かると思います。

では実際の職場ではどうでしょうか?組織のパフォーマンスに貢献しない人は排除の対象になるのが通常です。会社を辞めてもらうとか極端でないにしろ、制度上の評価が低かったり、事実上の発言権がなかったりなど、直接的な貢献がない人は黙っていろという風潮があるのではないでしょうか。働きバチのように勤勉に働くことのみが美徳とされ、評価の対象になります。労働はほどほどにとか勤勉がいけないと言っているのではありません。職場の多様性がなくなると、外的な評価ばかりが気になって、失敗を異常なほど恐れる組織になります。そして、クリエイティビティや変化対応能力も喪失していきます。

ここで、ハイパフォーマーである「蜂」ばかりの組織は(それをあるべき姿としている組織は)、変化対応力が低いという仮説が成り立ちます。

いまは、Z世代のさらにその下の世代も社会に出てきました。SNSが構築するネットワーク社会に慣れ親しんだ世代の中には、ヒエラルキー型の会社の組織図が体感的に理解できない人もいるといいます。部長がいて、課長がいて、パフォーマンスによって給与や昇進が決まっていくのがわたしたちの常識です。今はマジョリティーなので何も感じないかもしれませんが、次のさらにその次の世代あたりが働き盛りと呼ばれるようになる時代には、わたしたちの「常識」は、大いなる「非常識」になっているのかもしれません。

書籍『コーポレート・レベルズ』に掲載されている一例をご紹介しますと、スペインのバスク州にあるNuevo Estilo de Relaciones(略してNER)という団体は、地元企業を買い取って、経営陣を解体し、組織をセルフマネジメント(自主経営)化することで、すべての従業員が自らの意思決定によって働ける環境を作ってきたといいます。

これだけでは何のことか分からないと思います。もう少し、似たような例を使って説明すると、モーア氏によると、彼の属する、団体であるコーポレート・レベルズでも、KRISOSという組織を立ち上げ、企業の共同所有を始めたということです。つまり、事業承継に行き詰まっている企業などを買ってきて、セルフマネジメント化し、ゆくゆくはそこで働く人たちに売却していくというシステムです。従業員は給与以外に、出資者としての収入を得ます。これはいわゆる、コ・オウンド・カンパニーと呼ばれる経営形態です。

私の友人でもある経営者のKさんは、企業文化を変えるにはトップをすげ替えるのが一番と言って、次々に会社を買収しています。彼もプロフィット・シェアをいう方法を使って、従業員の資本家計画を進めています。理想論的な可能性としてですが、会社を従業員の共同所有にすると、銀行や資本家の言いなりになることが避けられ、本当に社会に必要とされるものだけ提供できるようになっていきます

「会社は株主のもので従業員は労働の対価として給金を得ている」というシステムは唯一の資本主義の形態ではないことがご理解いただけたと思います。

『コーポレート・レベルズ』には世界中の多様な働き方が数多く紹介されています。これらの情報というのは一種のリテラシーの問題で、知っているか知っていないかの問題でもあります。冒頭で日本が働き方後進国である理由の一つが「非開放性」だといったのはこの点にあります。「コーポレート・レベルズ」の「レベル」とは「反逆」のことです。「常識」に対する「非常識」のことで、「クレージーな働き方」のことを言っています。「クレージー」と感じるものに、私たちの許容度はまだまだ低く、関心も及ばないままでいます

北欧諸国は福祉政策にかんしても世界の他の地域に先駆けて様々な取り組みをしてきました。日本人は、かつて、福祉を充実させようとする政策のことを、「スウェーデン病」などといって、さんざんバカにして来ました。しかし、いまは完全に後塵を拝し、その先進の取り組みを進んで取り入れようとしています。

日本人は勤勉な民族と言われます。それは遺伝子レベルでも証明されています。いわゆる「勤勉遺伝子」と呼ばれるハプログループDE型におけるYAP配列は、日本人とチベット人の一部にしかないといいます。その他のYAP配列にかんしては、E系統とされるユダヤ系だけだと言われています。
 
勤勉であることは、目の前のことに集中しがちになるので、新規性に対して関心が薄く、不寛容になる可能性は高いのではないかと思います。
 
橘玲は『スピリチュアルズ』の中で、「ビッグファイブ」と呼ばれるパーソナリティ理論を紹介しています。その中で「勤勉な日本人」に触れた箇所があるのですが、橘は、日本人の特徴は、低い外向性(内向的要素が強い)と、高い神経症傾向で説明がつくと言っています。また、別の箇所では、「日本人の特性と考えられる3つのパーソナリティ」というくくりで、「内向性」「高い神経症傾向」「低い経験への開放性」を挙げています。ほぼ、私の推論と一致しているのですが、橘はさらに、日本人は、世界で最も自己家畜化が進んだ民族という言い方をしています。それをそのまま受け入れるとしたら、飼いならされて自己決定から遠ざけられると、変化には対応できなくなっていくのはなんとなく分かります。
 
「家畜」になる前、と言ったらすごい語弊があるのですが、昔の日本人のことは気になります。
 

和銅元年正月、詔「高天原ヨリ天降リマシシ天皇ガ御世ヲ始メテ、中今ニ至ルマデ、天皇ガ御世、天ツ日嗣ト高御座ニマシテ、云々」

『続日本紀』四巻

この中で「中今」という見慣れない文字が出てきます。意味としては、「今」です。文章全体は、天孫降臨という過去のひとつの時点と、「今」というひとつの時点を示して、過去から今までずっと、ということを示しています。ではなぜ、「今」ではいけなくて、「中」を加えて「中今」としなければいけないのでしょう。「今」は1秒も経てばすでに「過去」になります。時間軸に「今」をとどめよるために、「中」という字を加えたのです。時間軸に画鋲を指す感じでしょうか。この感覚はカルロ・ロヴェッリや田辺元を読むとよく分かりますが、「今」にすべてを閉じ込めようとすることを「永遠の今」と呼んだりします。では、「中今」の「中」とは何か、もう一度戻りますが、「中」とは、過去と未来の中間を意味します。過去と未来の真ん中が「今」で、そのバランス軸、絶対的中間点が「中今」というわけです。
 
バランスを取る中間点があって、その両極を見ていくことを「極性を見極める」などと言います。ただ物理的にはむしろ逆で、極性があるから中間が存在するといった方がいいでしょう。表現型としてはどちらでも同じです。「蜂」と「蝶」の一方に価値の重みづけをすると、平衡は取れなくなります。人材育成のSDGsと呼ばれるIDGs((Inner Development Goals)では、「vulnerability」といって、弱さを見せることの勇気が尊重されます。これは「強さ」と「弱さ」の偏りを、一方の「勇気」をもってたたえる、バランス感覚の好例です。
 
日本の人事は、「蜂」と「蝶」の中間点も取ってるぞという方もいらっしゃると思います。相対評価による人事制度のゼロポイントがそれにあたります。S、A、B、C、Dという評価軸なら、Bの真ん中ということですね。
 
ではその中間点で折り曲げてUの字を描いて、「蝶」を持ち上げたらどうなるでしょうか。これがOSTの推奨基準です。人事評価でこれをやると間違いなくカオスが起きます。しかし、カオスはランダムな混沌ではありません。混沌と秩序の中間点、絶対的な境界線(バウンダリー)です。新たな秩序はこのぎりぎりの一点からしか生まれてこないものではないでしょうか。


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