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あきらめる潔さ

TOKIOのリーダーが結婚するそうだ。
大変素敵なニュースで喜ばしい。

そんなおめでたいニュースを見て、なんだか憂鬱な気持ちになってしまった。

私は決して、リーダーのファンではない。
そして、リーダーと結婚される方のファンでもない。

ただただ、アラフィフの男性と20代の女性が結婚することについて、羨ましく思っただけの話である。

私は、独身である。
ぶっちゃけ、結婚も出産も諦めている。

諦めないと、諦めたことにしないと、世知辛くて、厳しい、生きづらい世の中だからだ。

ちまたには、子連れの人や妊婦には優しくしようという、当たり前の常識がある。

もちろん、私もそうしている。
そうしてきたつもりである。

ただ、同時に、スーパーで働いていた私には、軽い試練でもあった。

赤ちゃん連れのお客様の買った商品は袋に入れてあげる。
かごを運んであげる。
子供がお菓子を持ちたそうならテープをはってあげる。

今まで、そうしてきた。

でも、そうするたび、私の心は、なんだか少しざわついていたのた。
高齢者のお客様には、普通にやってあげられるのに。

理由は、分かっていた。

私が、大人になれてないから。
私が、結婚や、出産が出来ないのは、そういう私に原因があるから。

ひたすら、自分にそう言い聞かせ、傷んだ心を隠しながら、優しく接客をしていた。

でも、やっぱり無理があった。

気づいたら、妊婦さんや赤ちゃん連れの親子の接客するのが、嫌になっていた。
自分の傷に容赦なく塩を塗ってくる存在になっていたのだ。

そんな自分が嫌になった。
誰にも言えない。言えるはずもない。
最低な自分をさらけ出すだけだ。

少しでも、最低な自分に気づかれまいと、今までやってきた。

絶対に気づかれまいと、ただマニュアル通りの接客をしてきたのだ。

マニュアル通りの正しい接客をするのが精一杯であり限界だったのだ。

年配のパートのおばちゃんたちが、赤ちゃんに話しかけたり、お母さんに、「何ヵ月?」とか訊いているのを見るたび、

心から優しくなれない自分に嫌気がさして堪らなかった。

お腹に赤ちゃんがいるのは素敵なことである。
赤ちゃん連れのお母さんは大変だ。
優しくするべきである。

頭の中では分かっていた。
でも、辛かったのだ。

世の中には、手に入れられないからと言って、羨んだり、妬んだりすることも許されないという正義に、傷ついている人もいる。

ただ、葛藤や苦悩していることだけでも、少し理解して欲しいと願うのは、単なる私のワガママなのだろうか。

優しくしたくても、優しく出来ないことを一番責めているのは、紛れもない、私自身なのである。

だからと、いって、私が優しくされたいとか、同情されたいわけでもない。

ただ、ただ言いたいのは、
責めないで欲しいということだけなのだ。

ワガママだとか、自業自得だとか、自覚している事は言われたくない。

私だって、結婚して子供や夫とマイホームでも買って幸せになりたかった。
子供とディズニーに行ったり、子供のためにお弁当作ったりしてみたかった。

それに比べて現実は。

そんな私は、もし親がいなくなったら、血の繋がっていない姉とも疎遠になり、孤独死をすることを覚悟している。

血の繋がっていない姉とうまくいってないのは、自分のせいであるのを昔から知っていたし、その事実に今まで翻弄され、苦悩してきたし、いつか責められるだろうと怯えながら生きてきたからだ。

でも、やっぱり責められたくないと思ってしまう。
ずっと苦しんできたのに、その上、責められたら耐えられない。

昔、何かの本で読んだのだが、
人は、諦めながら生きるといいそうだ。

たしかに、諦めないと、生きづらい。
でも、諦めるには、諦めるための準備がいる。

私は今、中途半端なのだ。

早く諦めたい。
でも、諦めたら、存在する意味や理由は、どうなるか不安だ。

そう考えると、諦めながら生きる潔さは、どうしたら手に入り、うまく活かせるのだろうか?

今の私には、分からない。

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