30代に入り、公園のベンチに座るサラリーマンの気持ちが理解できた気がする
昔ドラマでよく見かけた公園のベンチに座っているサラリーマンの姿は、なんとも不思議な光景だった気がする。しかもよく描かれていたのは、朝元気に「行ってきます!」と家族に笑顔を振りまいた後に、わざわざ公園に行くのだ。
仕事が嫌なら休めばいい気がしていたし、家族と過ごすのが嫌なら、友達と遊べばいいじゃないかと単純に思っていた気がする光景だった。
でも今は少し分かった気がする。大人の寂しさというものが。
大人の寂しさは一人になれないこと
名著「さみしい夜にはペンを持て」にこんなことが書いてあった。
友達といても家族といても寂しい。それはその場に「自分」がいないからだと書かれている。
そう大人になると会社や家族や友達、ましてやSNSで常に繋がっていると決して一人にはなれない。そして多面性を持つみんなはその中で自分のキャラクターを作り、自分の一部を映し出していく。
そこにあるのは自分の一部でしかないから、本当の自分が分からなくなって、寂しくなるのだ。
みんなも今の生活を思い返してみてみると感じるかもしれない。会社に行けば、自分に任せられたMISSIONをこなし、家に帰れば、家族や恋人と過ごす。楽しいときも多いかもしれないが、相手に気を使い、一体自分はいつ休まるのだろうと思う。子育てや介護が始まれば尚更だ。
だからなんでもない自分を取り戻すために公園のベンチに座るサラリーマンがいるのかもしれない。大人の寂しさを感じているのだ。きっと。
自分を生きるのは難しい、でもチャレンジはしていたい
振り返って見れば、自分ひとりで過ごす時間なんて、みんなには想像以上に無いのかもしれない。
いい子とは〇〇であると習ってきた学生生活から、大人になっても世の中に並ぶ言葉は〇〇だといいよ、正解だよっていう言葉たち。
出来る会社員は〇〇だ!
子供にとっていい親とは〇〇だ!
介護は〇〇の心持ちで過ごすべき!
それに倣って生きてみて、色んな顔の使い方を覚えて、過ごしている内に「自分らしく」生きるのが難しくなってしまっているのかなと深く、深く思う。
だからこそ、少し意識をして、自分を生きてみる。
少し我を出してみる。
そんな日々も悪くないんじゃないかなと思う。
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