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【インタビュー】流されて、たどり着いた先に見えたもの ~ある長崎の被爆者の物語~②

ジフテリアを発症、隔離病棟へ

長崎支店の宿直室から大波止支店の宿直室に引っ越した時に、古瀬さんはジフテリアに罹ってしまった。そうしたら、あれは子どもの病気だとみんなに笑われた。周りにジフテリア感染者がいなかったのに罹ってしまったのは、おそらく共働きのストレスだろう。伝染病専門病院で1カ月入院した。
姑が、寂しいだろうと小姑(義妹)を古瀬さんの付き添いとしてよこしてくれて、病室に2人で寝泊まりした。夫の台所の手伝いに小姑をよこせばいいのにと思った。夫は青びょうたんでどんどん痩せていく一方、自分はまるまると太って、どちらが病人か分からなかった。お手伝いさん付きでいい休養にはなったが、入院中はすることがないから一日が長く感じられた。唯一の楽しみは、夕方に夫がお見舞いに来てくれることだった。
夫は家事の大変さが分かったのか、古瀬さんが退院をすると、「これからは料理を当番制にしようか」と提案してくれた。そこで、「月曜から木曜までは私がするから、金土日はお願いします」と頼んだ。
親戚や友人が週末に遊びに来ると、料理を作る夫を見て、「ここの家はどうなっているの?」と驚かれた。男子厨房に入らずの時代に、夫が家事に協力的でとても助かった。
夫が定年を迎えると、「定年になったら二人で一人前ですよね。衣食は私がしますから住は頼みます」と伝えた。夫は掃除機を自分で選んで買ってきて、せっせと掃除をしていた。徹底的にするから掃除は上手かった。「夫は内閣掃除大臣」と言う。その夫が亡くなって、「しもうた!掃除機の袋があるところを聞いておけばよかった」と後悔した。

家を建てる、雑誌「婦人之友」との出会い

城山に古瀬さんの実家の土地が残っていて、広かったこともあり、みんなが「貸せ、貸せ」と言ってきた。祖父は「いっぺん貸したらおしまいだ」と言う。それなら、早く家を建てようということになった。
1950年(昭和25年)で、タイミングよく住宅金融公庫が設立されて、それに申し込んだら一発で当たった。ところが、ローンの頭金がない。すると、当時の支店長が、古瀬さん夫妻のために自分の定期預金を担保にして銀行から約8万円を借りてくれた。まだ古瀬さん夫妻が合わせて1万円も給料をもらっていない頃だ。住宅金融公庫からは30年ローンで30万円くらい借りた。そちらはゆっくり返せばよかったが、銀行から借りた8万円は早く返済しないと支店長に申し訳ないから、家計をできるだけ切り詰めた。当時、鯨が安かったため、鯨ばかり食べていた。「だから今はもう鯨は食べたくない」と顔をしかめた。
1950年に家を建て、翌年には長女が生まれた。その時、体力がきつかったから学校は退職した。そうしたらまた貧乏になってしまった。大変だったが、やはり子どもが一番だから辛くはなかった。古瀬さんは、血が繋がった家族が再びできた喜びに満ちていた。1952年(昭和27年)には長男が誕生した。残念ながら、長女は小学校6年生の時に、腎臓が悪くて亡くなった。
若い頃は家計を切り詰めるために様々な工夫をした。「だから貧乏は上手ですよ」と茶目っ気たっぷりに言う。当時、女性誌の草分け的な雑誌「婦人之友」があり、生活をよりよくするための衣・食・住のヒントが掲載されていた。その「婦人之友」の愛読者たちが集う友の会があり、銀行の宿直室に住んでいるときに、友の会主催の食の講習会に参加した。お米が少ない時代に、おからにイワシをまぜて握りずしのようにして出していた。講習会で様々な知恵や工夫に感心し、古瀬さんも「婦人之友」を購入することにした。それ以来、親がいない古瀬さんの教科書となった。
ある日突然、家計簿が送られてきた。夫が婦人之友社の家計簿を頼んだのだ。そして、「今度から家計簿をつけようね」と言った。当時、共働きで、古瀬さんの給料で食費をまかなっていたため、自分のお金ばかり使っているようで釈然としない思いだった。お金が何に必要だったかといえば、闇米、付き合い、交通費、被服費など。家計簿を付けて、使い道がきちんと分かれば腹が立たなくなった。家計簿は家庭平和のためにもいいと古瀬さんは薦める。

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夫に育ててもらった

「ユーモアがおありですね」と私が言うと、「子どもの頃は大人しかったからユーモアのセンスは夫譲りだろう」と答えた。
古瀬さんが1時間以上かけて料理を作ると、夫と息子がものの10分で食べ終えてしまう。腹が立ち、「私は本を見ながら一生懸命に作っているんだから、もっとゆっくり食べてくださいよ」と文句を言ったら、「あんまり美味しかったから夢中で食べたもんね」との返事だった。そう言われると、もう怒るわけにもいかなかった。万事がそういうふうだったから、けんかにもならなかった。夫とは2歳しか違わなかったが、考え方は数段上だった。
いつかタクシーに乗った時に、古瀬さんが「〇〇」と行先を告げたのに運転手が返事をしないことがあった。夫が「お願いします」と言うと「はい」と運転手は返事をした。夫は銀行の営業マンだから物言いが柔らかい。自分はぶっきらぼうに言うから、運転手が返事をしなかったと気づいた。
古瀬さんが親と過ごしたのは20年、夫とは40数年。夫は親のように教えはしなかったが、そばで見ていてなるほどと思うことが多かった。そういう意味で、自分は夫に育てられたのかもしれないと振り返った。
親代わりだった夫は前立腺がんを発症し、72歳で亡くなった。亡くなる直前まで元気だった。周りの人たちには早すぎる死だと言われたが、やりたいことをやり尽くしたから本人は満足しているだろうと古瀬さんは感じている。
夫は多趣味で、以前から楽しんでいた版画や写真のほかに、63歳で会社を退職してから始めた陶芸は、電気窯を購入して自らの手で焼くほど夢中になった。日本野鳥の会に入会してバードウォッチングに行き、日本気象学会に入会して天文台で天体観測をした。日本花の会では、年一回のシンポジウムに夫婦で参加した。音楽鑑賞も好きで、良い席でオーケストラの演奏を楽しむために九州交響楽団の会員になった。はじめは夫婦で会員になったが、古瀬さんは演奏会中にいつの間にか気持ちよく居眠りをしていたようで、夫に「もう連れて行かんよ」と言われた。
頼れる夫が亡くなってさぞや気落ちしただろうと想像して聞いたところ、「夫亡き後の20年間は私の青春だった」と晴れやかな表情で語った。誰にもお伺いを立てずに自分で決めるという自由を初めて体験し、それを存分に謳歌したのだ。

横浜に移住したワケ

この歳になると友人や親類などの死に様を聞くが、子どもが大変苦労していた。遠隔介護が多い。そして、死んだあとも何回も実家に足を運んでいる。それを知り、これは大変だと思った。だから、自分が息子のいる東京に行けば、息子が助かるのではないかと考えた。
当時、92歳だった古瀬さんは、100まであと数年。住み慣れた土地を離れて寂しかったとしても知れたものだと思った。それに自分は順応性がある方だから、どこに行ってもなんとかなると思えた。というのも、夫が銀行員で転勤族だったからだ。当時、新しい土地に慣れるまでは自分も子どもも苦労はしたが、どこも住めば都だということが分かっていた。
そのことを息子に話すと、思いのほか驚いていた。しかし、嬉しかったのか、一生懸命に住む場所を探してくれた。息子がいいと思ったところにするつもりでいたが、「自分で探さんば」と言われた。
そこで、一週間息子の家に泊まって、二人で探すことにした。息子が10件くらい候補を絞って交渉をしてくれて、千葉、八王子、町田などあちこちを見学して回った。一時金を払わないといけないところもあったが、いつ死ぬか分からないのに一時金はもったいないと思い、住む期間だけ支払う賃貸の方がいいということでここ(サービス付き高齢者向け住宅)にした。
「私はどん底まで行ったから強いんだと思う」と振り返った。だから、たいていのことは我慢できるし、乗り越えられると思った。そうしたら、思っていたよりもいい人ばかりで、楽しく暮らしている。
たいていの人は、子どもに言われてここに来ているから「帰りたい」と言っている。
「私は自分で選んで来ているからね。もう帰るところもないし。ちょっと贅沢だけど、あと少しだからね」
とここで余生を過ごすことを力強く決めている。

今、楽しんでいること、大事にしていること

行動的で社交的な古瀬さんの今の楽しみは、あちこちに行くことと人と会うこと。
火水木金の週4で体操に通っている。土日は息子さんが来るかもしれないから空けている。夕飯は食堂「おひさまカフェ」で住人たちとおしゃべりをしながら食べて、情報収集をしている。病院に行くのも仕事だと笑う。
自分は意思が弱いから、決められた枠が少しあった方がいいのだと言う。行くところを決めておけば、休むのは嫌いだから行くらしい。
長崎にいたころ、目の前に室内プールがあり、50歳近くになってから初めてクロールを習った。子どもの頃は平泳ぎが女泳ぎで、クロールは男泳ぎだったためだ。その教室は前払いで、全10回、雪が降ろうが雨が降ろうが休まず通った。
「それを2期やったんで、のろまな私でも泳げるようになった。今はもうダメ、水着が入らないから。その教室を卒業してから回数券を買ったけれど、全然行かん。『いつ行ってもいい』だと枠がないからね。だから枠は有難い」
自分の特性を理解して生活に生かしている。
憧れのデイサービスにも行き、そこで分かったのは、あそこは託児所ならぬ託老所ということだとユーモアたっぷりに語る。
そして、毎日「ナンバープレイス(ナンプレ)」という数字を使ったパズルゲームを楽しんでいる。
「難しくてどうしてもわからんときは居眠りしよる。自分で枠を決めていて、1問だけやることにしている。続けて2問はやらない。脳トレはせんよりはましだと思って。使わんと何でもさびてしまうからね」
「一番大切なものは?」と質問すると、「家族」と即答した。
夫は面倒見がよくて優しい性格だったため、親兄弟の世話をいっぱい焼いていた。自分はしたくてもできないものだから羨ましかった。「しまった。戦災孤児と結婚すればよかった」とひがみ根性が出ることもあった。
また、できた姑で尊敬をしていたが、姑が娘のことを話すときだけはカチンときた。自分にも親がいたら心配してくれたはずなのに、と。
一番悲しかったのは自分の結婚式の時だ。新郎側に家族がそろっているのを見るのは辛かった。
失ったからこそ家族の大切さを痛感している。
「今、一番考えていることは唯一の家族である息子と喧嘩せんこと」
と笑った。

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笑って死にたい

古瀬さんの人生は時代に翻弄されたものだったが、
「流されてたどり着いたところがほどよいところだったという言葉があります。結局、私は流されたけれどこれで良かった」
と言い切る姿に、真の強さとしなやかさがあった。ここでは語り尽くせないほど様々なことがあったと思うが、辛いことや失ったものはひとまず脇に置いて、今在るものに目を向けて、ユーモアを大切にしながら日々を丁寧に生きてこられたのを言葉の端々から感じた。
「私は出会う人に恵まれてきました。横浜で会う方々もみんな良い人ばかり」
と今までの出会いにも感謝する。『なつぞら』の中で、おじいさんが「助けてもらおうと思うな。自分で何でもしなさい。そうしたら人が助けてくれる」と言っていたように、古瀬さん自身が一生懸命生きてきたから、出会いに恵まれて、手を差し伸べてもらえたのだろう。
「最期は笑って死にたいですね」とほほ笑む古瀬さんが、このインタビュー直前に引退をした大リーガーのイチロー選手と重なった。
イチロー選手は、引退する前から「野球を引退するというのは自分にとって一つの死。引退する時は笑って死にたい」と常々言っていて、その夢が叶った。球場に残っていたたくさんのファンに盛大な拍手で見送られて、イチロー選手は一片の曇りもない清々しい笑顔で引退した。
古瀬さんと話していても、とにかくユーモアに溢れていて、笑顔が多く、日々を上手に楽しんでいる。そんな古瀬さんだから、きっと笑顔で人生の幕を閉じるのだろう。
「今、穏やかで一番いいときだから、このまま亡くなりたいと思うんだけど、なかなか。余生って長いですよ。今はおまけの人生です。何かの役に立っているから生きているとよく言うでしょう。私なんか何の役にも立っていないような気がするけれど、きっとお役目があるんでしょうね」
この横浜にも、陽だまりのような古瀬さんの人柄に温められる人たちが沢山いるに違いない。


(2019年4月5日、6月3日インタビュー)

(注A)長崎新聞1998年9月4日掲載の「私の被爆ノート」より引用


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