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「仏の顔は、一回目から」

「仏の顔も三度まで」

教育に関わると、この言葉はその実践の中で時々顔をもたげる。
(あ、いかんいかん。ここは怒ってはいかん。仏の顔も三度までだ。一回位で怒っては駄目だ)
のように思う。
しかし、これは違うのではないかと思うのである。



私たちは子どもが一回悪さをしたとき、この諺の教えに従って我慢し、二回目も我慢し、三回目も我慢し、四回目で叱るというように考える。
叱る側は
(三回も我慢したんだからいいだろ)
と思って、四回目を強く叱る。

が、叱られる側から見るとどう見えるだろうか?
悪さをした子どもは
(う、やばい、叱られる)
と思っている。ところが、叱る側が三度までと我慢しているので叱られない。すると、
(ん? オッケーなのこれ?)
と思い、二回目、三回目と同じ悪さをする。そして、運命の四回目に叱り飛ばされるのである。
で、
(え、なんで? いままで許されていたじゃん。なんで急に怒るの?)
となるのである。



私は、「仏の顔は、一回目から」を唱えている。
一回目に、駄目だと言えば良いのだ。それで子どもも分かる。
何も大きな声で怒鳴る必要も無い。駄目だと言えば良い。


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